歴史の扉|永寿院
先人との出会い
「ご先祖さまは、まさに足元にいらっしゃる」発掘調査を重ねて実感しました。
土の中に残されたたくさんの記憶を、丁寧に読み取り、思いを馳せ、あらためてお題目を唱えると、ご先祖さまもお題目を唱え返してくだっているように感じます。
時を超えた出会いの中で、さまざまなことを受け継ぎ、次の世代へ受け渡す責任も感じます。
これもお寺の大きな役割だと思います。
日蓮宗のお寺 東京都大田区池上 永寿院
歴史の扉
平成15年より万両塚改修の過程で墓域周辺の調査をしていたところ、土器・埴輪・須恵器など古代の遺物が多数発見されました。
そこで本格的な発掘調査に踏み切り、竪穴住居跡の調査・保存、遺物の復元などに取り組みました。武蔵野の台地の南端にあたる池上の山には久が原と並んで弥生時代の集落が存在していたことが今回の調査で明らかになりました。
弥生住居跡
弥生土器が出土した場所は、竪穴住居の跡であり、柱穴やかまどの跡、建物周囲の溝などがはっきりわかる状態で発掘されました。万両塚の墓域内だけでも約20棟の住居跡が確認され、池上の台地の上には、弥生時代の一大集落が形成されていたことがわかります。中には火災にあった建物や、床を掘り下げてリホームし何世代にもわたって住み続けた形跡などが見られます。
発掘作業
弥生式土器
発掘調査の過程で、2000年前の弥生時代の土器が多数発掘されました。煮炊きに使う甕や祭祀に使う壺など割れた状態で出土した遺物を丁寧につなぎ合わせ復元し、本堂内に展示しています。ヘラや縄などで模様が施され、漆で彩色したものも見られます。いずれも南関東地方の弥生時代後期の土器の特徴を表しています。
弥生式土器
住居跡の復元
江戸時代に万両塚を築くときに半分壊された住居跡を、歴史が重層する貴重な遺跡として再生保存しました。 土の状態の住居の跡から石膏で型を取り、樹脂モルタルでレプリカを成型し、住居跡そのものは砂で埋戻し、遺跡の真上にレプリカを設置します。遺跡のもとの位置に復元する「原位置再生」という手法です。
原位置再生の手順
①遺跡の清掃
②ラテックスゴムによる型取り
③樹脂モルタル成型
④原位置に設置
石器と動物の骨
今回の発掘調査では、土器のほかに、石器・炭化した木材片・骨片も発見されました。
石器は、手に握って木の実などを砕くために使ったと思われる石斧や黒曜石の矢じりなどが数点。
骨片は自然科学分析の結果、フグ・ウミガメ・シカ・イノシシの類であることが判明しました。ウミガメの骨は直径5cmの円盤状の加工品、シカは角と頭蓋骨の加工品でした。
復元した弥生住居と古墳墳丘
石器
石斧
矢じり
ウミガメ科肋骨加工品
万両塚の南隣は、『堤方権現台古墳─大田区遺跡』として、文化財保護法にいう埋蔵文化財の包蔵地に登録されていました。江戸時代の地誌にも、堤方権現台から古刀古器が出土したという記録があり、この地が古墳であることは推定されていましたが、今回の調査によって、古墳の周濠と土器・埴輪・須恵器が発見され、古墳の存在が確認できました。
埴輪の発掘
古墳の周濠から多くの遺物が出土しています。その多くは、墳丘を巡り古墳を聖域として区画するために配置された円筒埴輪です。円筒埴輪とは、弥生時代の墓に供えられていた壺やこれを乗せる円筒形の器台の文様や形が次第に変化し簡略化したものです。万両塚の円筒埴輪は、古墳時代後期6世紀頃のものだと考えられます。
発掘現場
円筒埴輪
須恵器の発掘
青灰色の須恵器は、古墳時代に朝鮮から渡来した工人たちによってつくりはじめられました。万両塚から出土した須恵器は、蓋つきの祭器と高坏の一部です。特に高坏は、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳から出土したものと形状が似ており、おそらく同時代の古墳時代後期(6世紀後半)のものだと考えられます。
須恵器
副葬品の出土
埴輪が出土し、さらに大々的に古墳の調査を進めたところ、古墳の中心部から被葬者の副葬品が発見されました。副葬品は、馬を装飾する馬具一式、木製の鞘に収められた鉄製直刀、鉄鏃を取り付けた矢が数十本です。出土状態が良好で、馬に装着した状態まで想像できる貴重な資料として、立体的なレプリカを作成して本堂に展示しています。
副葬品出土状況
馬具出土状況
馬具レプリカ
古墳の墳丘の土の中から、多数の弥生式土器のかけらが発見されます。1500年前に古墳を築いた人々が、さらに500年前の弥生時代の住居跡の土を盛り上げたために土器片が混入したのです。調査がひと段落した平成20年8月、発掘現場を開放し「親子発掘体験」を開催し、ザクザクと土器片を掘り出しました。
古墳の復元
今から約1500年前に築造されたこの古墳は、直径40メートルほどの円形の形状であったようです。現在は、周囲に住宅が建っているため、特恵10メートル程の墳丘しか復元できませんでした。墳丘の中央には被葬者の遺骨とみられる土を納め、埋葬供養をしました。古墳が築かれた当時関東にはまだ仏教は広まっていませんでしたが、時を超えて法華経に巡りえたことを喜んでいただけるようにお勤めさせていただいています。
(左上)復元地層トレンチ(右上)古墳被葬者埋葬
(下)復元された古墳
永寿院の開山
寛永7年(1630年)7月、本門寺16世として心性院日遠聖人が晋山しました。日遠聖人は翌年5月本門寺を弟子の日東聖人(本門寺17世)に任せ鎌倉に隠棲しました。その際日遠聖人の隠居所として日東聖人が建てた庵室が永寿院の始まりだといわれています。
永寿院の日蓮聖人御尊像底部に「寛永7年」と記されていることがそれを裏付けています。当初は日東聖人の法号に因み「蓮乗院」とよばれていました。
また、関ヶ原の戦いでの軍功により徳川家康に仕えた大名備中庭瀬藩主戸川達安(とがわみちやす)が下屋敷を寄進したと伝えられており、達安の法名に因み、山号は「不変山」といいます。
日蓮聖人坐像
日蓮聖人御尊像
御尊像の底部には寛永7年(1630)と開眼年が墨書され、胎内にはお題目と仏師の名が記された文書が収められており、永寿院創建当初に造立されたものであることがわかりました。
永寿院の本堂は明治末と大正年間に二度の火災に遭っています。火災の中、御尊像を救い出された先師の思いが熱く伝わってきます。
御尊像底面墨書
御尊像胎内文書
日遠聖人とお万の方
徳川家康の側室お万の方は、当時身延山と池上本門寺の住職を歴任した心性院日遠聖人を熱く崇敬していました。拡大しつつある法華の勢力に対して、徳川家康が弾圧を強化した際、お万の方は日遠聖人を養護し、さまざまな外護をしてくださいました。紀州藩祖徳川頼宣の生母でもあり、池上本門寺が紀州徳川家の菩提寺になったのもお万の方のご縁によるものです。徳川家康とお万の方の孫、芳心院が永寿院の隣地に墓所を造営したのもそのご縁からです。
池上本門寺 紀州家墓所
戸川達安公位牌
開基檀越 戸川肥後守逹安公
永寿院の開基檀越は備前庭瀬藩初代藩主 戸川逹安(みちやす)公です。もとは宇喜多秀家に仕え、関ヶ原の軍功により庭瀬藩主になりました。熱心な法華経の信者で、領内に法華の寺院を多数建立し「備前法華」の礎を築きました。 『新編武蔵風土記稿』には、永寿院の寺地は戸川家の下屋敷であったと記されていますが、実際には、逹安公の没後、江戸の下屋敷を寄進して、永寿院を建立したと考えられます。
在家の戸川公
出家後の戸川公
戸川家墓所
永寿院歴代住職墓所の隣に、開基檀越戸川家の墓所があります。 初代戸川逹安公の宝篋印塔とその正室、一族の墓所です。永寿院境内で最も古い墓所で、平成18年、整備のために調査をしたところ、甕棺に収められた土葬骨と、手鏡や紅皿など女性の副葬品が多数確認されました。埋葬後数百年の間に墓石が移動され、被葬者が誰であるか正確には確認できませんが、戸川家ゆかりの方々が眠る場所としてお守りさせていただいています。
永寿院境内 戸川家墓所
戸川家領地の岡山市庭瀬 不変院
戸川家墓所周辺から出土した甕棺
柄鏡X線写真 柄鏡 裏(左) 表(右)
煙管・出土銭貨
万両塚
万両塚に埋葬されている「芳心院殿妙英日春大姉」は、徳川家康と側室お万の方の孫にあたり、紀州徳川家初代藩主頼宣の娘、鳥取池田家初代藩主池田光仲の正室です。
宝塔基礎石背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」(生前に墓をつくるなどの善行を積めば、七の功徳全てを得ることができる)のために生前に建てた自分のお墓であったことが記されています。
宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見されました。自身の法華経信仰を300年後の私たちに伝えてくれる貴重なお墓です。
上空からの写真
バルーンによる撮影
宝塔背面の碑文大意
法華経巻子本八巻
万両塚宝塔の解体時、笠の下、「塔身」といわれる円筒形の石の上部が四角く繰り抜かれ、法華経の巻子本(巻物)八巻が発見されました。
おそらく、300年前の埋葬時に副葬品として納められたものだと考えられます。水分が抜けきり完全に乾燥した状態にあり開くことはできませんでした。芳心院の手により写経されたものだと考えられ、ご自身の信仰を後世の私たちに伝えてくださったメッセージだと受け止めています。
宝塔内から発見された法華経巻子本八巻
骨蔵器
巻子本と同じく解体時に宝塔内から、青銅製の骨蔵器(骨壺)が発見され、火葬された遺骨が納められていました。当時は大名の奥方といえども土葬が主流でした。池上には日蓮聖人を荼毘に付した場所があります。本門寺に対する篤信の芳心院は、日蓮聖人と同じ場所で荼毘に付されたと考えられます。どれだけ、法華経の信心が厚く、本門寺に尽くしていたかが偲ばれます。
宝塔内から発見された骨蔵器
万両塚をめぐる系図と芳心院年表
改修前の万両塚
永寿院と芳心院
祖母養珠院の仏縁で、永寿院に帰依していた芳心院は、息子永寿丸が多病であったため、本門寺の祖師に祈念し、もしつつがなく成長した時には出家させると願をかけた。この願はかなえられ、永寿丸は立派に成長したが、その出家させるのを惜しみ、観成院日遥を猶子として永寿丸の身代わりとなし、永寿院の住職とした。それ以前は蓮乗院という寺号であったが、芳心院より永寿院の寺号を賜った。
芳心院の縁者
観成院日遥聖人
観成院日遥聖人は永寿院の第七世と第九世の住職を復歴され、芳心院の子永寿丸の当病祈願が叶ったことを縁として、芳心院の猶子となり永寿院の住職となった方です。芳心院が万両塚を築いたのも日遥聖人が永寿院の住職をしていた頃だと思われます。さらに、芳心院が没した翌年、芳心院の遺骨を鳥取に送り届ける際にも、日遥聖人が随行していたという記録も残っています。位牌裏面には日遥聖人が永寿院住職在世中に客殿を普請し、境内の整備をされたことなどが記されています。
芳心院納骨供養塔
日遥聖人位牌
永春院殿妙住日延大童女
永春院は芳心院の次男で鳥取藩の支藩、因幡鹿奴藩の初代藩主、池田仲澄の長女です。貞享元年(1684)に6歳で亡くなり、本門寺22世日玄上人が回向し、その60年後の寛保4年(1744)に墓を作ったことが、墓碑から読み取ることができます。芳心院の生前に祖母を慕いながら幼くして亡くなった孫娘の墓を改葬したのだと想像されます。
永春院墓所
善心院妙和融の供養塔
大きな板碑型の供養塔の下に埋葬されていた壺の中には火葬骨と「籐衛」と記されたかわらけが収められていました。「籐衛」は他の文献から芳心院に使えていた女中であったことがわかりました。石塔に刻まれた没年は芳心院と同じ宝永5年、命日は芳心院より半年ほど前の5月16日です。芳心院に紀州家から付き従ってきた女中だと考えられます。
女中たちの供養塔
善心院左の笠付型の大きな供養塔には、6名の女性の法名が刻まれています。芳心院が寄進した茅ヶ崎妙行寺の日蓮聖人像の胎内に芳心院と女中たちが書写したお題目が収められています。この題目を書写したうちの2名が、この供養塔にも刻まれていました。信仰生活を共にしていた大名の正室と女中たちの暮らしが想像されます。
善心院供養塔(右)と女中たちの供養塔(左)
三枚の棟札
永寿院の本堂は明治・大正期に2度の火災にあっています。 火災のたびに本堂を立て直した記録が棟札からわかります。 棟札の日付を古い順に見ると、①明治41年6月12日 ②大正11年11月13日 ③昭和50年3月10日となっています。明治の末期に火災にあい再建、その本堂も10数年で焼失、大正11年に建てられた本堂は関東大震災にも耐え、第二次大戦でも焼失を免れました。現在の鉄筋コンクリート造の本堂を新築した際に御殿場感応寺に移築され、今でも現役です。
右から古い順に並んだ棟札
旧本堂庫裡の図面
大正末期に建立された本堂庫裏の平面図です。本堂は48坪、現在の駐車場の位置に北向きに建っていました。内陣は間口二間半、奥行四間の立派なお堂です。
庫裏は70坪、現在の本堂の位置に建っていました。大小9つの和室を縁側で囲んだ間取りで、激動の戦中戦後を生き抜いてきた歴代住職をはじめ寺族や檀家さんの暮らしがしのばれます。
旧本堂(昭和16年頃)
御殿場市感応寺に移築された旧本堂
旧庫裏(昭和16年頃)
有栖川宮熾仁親王(ありすがのみやたるひとしんのう)の額
有栖川宮熾仁親王は皇族として、戊辰戦争では東征軍大総督として鳥羽伏見の戦などに出陣しました。また、和宮と婚姻の内旨を受けていましたが、公武合体策のため解消したことは有名です。その熾仁親王の書が永寿院に残っています。明治14年(1881)政府の要職にあったころの「冝寿園」と書かれたこの書が永寿院にあるいきさつは不明です。
旧森村桂邸
堤方権現台古墳の敷地には、昭和7年に木造住宅が建てられました。この家に最後に住んでいたのは、「天国にいちばん近い島」をはじめ多くのエッセイや小説を著した人気作家 森村桂さんでした。森村さんが転居した後、空き家となり、屋根が落ち、床が抜けた状態であったため解体。古墳の副葬品が発掘されたのは床下の土から、わずか30㎝のところでした。
旧森村邸
森村桂著書