墓に髪を瘞める(うずめる)
芳心院の落飾(らくしょく)
芳心院は、寛永8年(1631)9月紀州で生まれ、僅か16才で鳥取藩初代藩主光仲に輿入れしました。
元禄6年(1694)7月7日、光仲逝去に伴い、落飾され仏門に入られ、以後「芳心院君」と称されたようです。落飾とは、貴人が髪をそり落として出家することです。
さて、落飾された髪は、どうしたのか気になりませんか。
この答えは、光仲の葬儀にあります。
少し長くなりますが、光仲の葬儀を簡単に見てみたいと思います。
光仲は元禄6年7月7日未刻に急変し、国元で死去されます。
8日沐浴、9日納棺、10日に菩提寺臨済宗・龍峯寺に安置。
この間に衣冠束帯の「御影」(肖像画)が作成され、焼香を受けます。
18日には掛真(けしん)・鎖龕(さがん)の儀が行われ、19日には葬礼場に出棺。葬礼場(化田河原)では、法事が執り行われました。
23日葬礼場から墓所(奥谷)に向けて出棺。墓所では「掩土(えんど)(土葬のこと)」で光仲の遺骸を納めた柩が埋葬されました。(*『空華日用工夫略集』‐嘉慶2年(1388)2月26日に「余不欲闍維。但作掩土之備」、『絶海和尚語録』〔15世紀初〕「慈氏義堂和尚掩土、這裏是慈氏宮殿、這裏是大寂定門」と記されている。)
特に注目したいのは、土壙(どこう)に納められた柩の上には、紙に包まれ、箱に納めらた髪が、経典と共に埋納されたと、『興禅院様御葬礼記』『興禅院殿御葬式記』等の記録に残っていることです。
この髪は、おそらく落飾された髪でしょう。
また、同じような例として、九代将軍家重の墓の中から、二つの箱が確認されており、一つには女性の髪と鋏、もう一つには大量の手足の爪が入っていたことが報告されています。
髪は正室の物とされ、爪は本人のものと断定されています。
正室が髪を納める意味は、落飾が、出家し仏門に入ったことと考えると、主人の墓に髪を瘞るということは、此岸を捨て自らの砕身舎利を納めるような意が込められたのではないでしょうか。
ここで思い起こされるのが、『高僧法顕伝』法顕記(「・・・佛在時剃髮剪爪。佛自與諸弟子共造塔。高七八丈以爲將來塔法。」)に記されている那竭国(ナガラハーラ)のくだりです。
お釈迦さまが、自ら在世中に剃髪剪爪(ていはつせんそう)したものを、諸弟子たちと共に高さ七十八丈の塔を造り納め供養されたことが記されています。
また、剪った爪を生涯大事にする習俗は、天皇家、公家に見られます。天皇と爪髪との関係は、古代においては、呪詛の対象にも成り得たことなどから、これを避け、寺などの聖域に、爪髪を塚を造り埋納しした例が、近世の高野山や、京都相国寺境内に確認できます。
芳心院の落飾と爪髪の習俗について
剃髪剪爪 落飾