銅鏃(どうぞく)
弥生時代の鏃(やじり)には石鏃・鉄鏃・銅鏃・木鏃・骨鏃があります。
弥生時代中期(約二千年前)までは石鏃が主役だったようですが、後期以降は工具などとともに徐々に材質転換がすすみ、地域色ともいえる形態的特徴を反映しつつ鉄製・青銅製になっていきます。
銅鏃は、日本では弥生時代から古墳時代にかけての数百年間に限って使用され、弥生時代には主に実用具であったものが、古墳時代になると副葬品としての性格が強くなります。
銅鏃は鋳造品で一つの鋳型から複数本の量産が可能だったようです。
福岡県の御陵遺跡‐春日市須玖北9丁目から出土した銅鏃鋳型は今から約2千年前の弥生時代中期に製作されたと推定されています。
長さ4センチメートルほどの鏃の型を、縦に3個以上、横3列に彫り込んだ石製の鋳型です。
1回の鋳造で、多数の銅鏃を作ることができました。
長崎県壱岐の原ノ辻遺跡では、銅鏃が100本以上出土しています。
一遺跡の出土本数としては国内最多です。
堤方権現台遺跡出土例は単独出土例ですが、東京における数少ない事例のひとつです。
朝日遺跡の出土例
堤方権現台遺跡出土の銅鏃から多くのことは示すことはできませんので、東日本を代表する弥生時代の環濠集落遺跡である朝日遺跡の出土の例を紹介しながら銅鏃が有する意味を紹介してみたいと思います。
朝日遺跡(弥生時代環濠集落の大きさとしては東西1.4キロメートル、南北0.8キロメートルあります。)は、愛知県清州市と名古屋市にまたがり、集落の外側には2~3重に濠を巡らし外敵の侵入を防ぐ工夫が施され濠の底には逆茂木と呼ばれる杭先を上に向けた木杭が発見され、当時の緊張状態を想像することができます。
この集落から約40点の銅鏃が出土しています。
ここで発見された銅鏃は大きさと形で時代的な変遷が追えるようで、鏃の長さが小さいものから大きいものへと変化をたどれるようです。
そして「鏃のカタチ」や拵えや装飾、色彩・文様、さらには矢羽根のカタチや取り付け方から、所属する集団を知り、特定個人までも想定できるようなモノであると考えられています。さらに鏃身のカタチには部族的な風習の違いが内包されていたと考えるべきであろうと、位置づけています。(『朝日遺跡』総括 赤塚次郎「朝日遺跡における金属製品の分布とその特徴について」)
朝日遺跡での考察を参考にすると堤方権現台遺跡24号住居跡出土の銅鏃の存在は、同遺跡内住居跡の特殊性を物語っているものと思われます。
加えて24号住居跡からは多くの動物遺体(鹿)が集中して発見され、土器類では大型の受口壺が確認されています。
この24号住居の特殊性には着目していただきたいと思います。
堤方権現台遺跡
銅鏃 堤方権現台遺跡