法話とおつとめ
永寿会では「日蓮聖人聖語カレンダー」から、その月の聖語解説と御遺文を拝読しています。
3月10日の永寿会は『日蓮聖人御遺文『本尊供養御書』(ほんぞんくようごしょ)から
「仏の御目には、一一に皆御仏なり」
身延の日蓮聖人に米や里芋を送った南條平七郎への礼状の一節です。
その短い手紙の大意は、
法華経の一文字一文字は、
仏の本意、すなわち衆生救済の意志の表れである。
我々凡夫の目には黒い文字にしか見えないが、
仏の智慧と慈悲の目をもって見れば、仏そのものなのである。
凡夫が仏に成るとは、
蕪(かぶら)が鶉(うずら)に、山芋が鰻(うなぎ)になるようなもので、
形が似ていても全く違うものに変化するくらいあり得ぬことだ。
それが法華経の力なのである。
文字が仏である事から転じて、凡夫が仏と成ることをいくつかの比喩をもって説かれています。
蕪と鶉
蕪が鶉になる、山芋が鰻になる。
絶対あり得ないと思い込んでしまうと、
人と仏に成ることもあり得ないと感じてしまいます。
でも法華経を信じ、きっといつかは自らが仏に成れるのではないかと思えるようになると、
蕪が鶉に、山芋が鰻にもなるのだろうなと思えてくるのが不思議です。
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永寿会 本尊