暦のはなし~不定時法という時法 改暦に伴って変わった不定時法 不定時法 時

改暦に伴って変わった不定時法

明治の改暦に伴い変わったのは暦だけではありませんでした。「間」の表し方も変わったのです。それまで十二辰刻(十二辰)で生活していた日本人でしたが「1日は24間ですから」とトキの感覚まで変更を余儀なくされてしまいます。十二辰刻とは、暦の伝来と同じ頃に中国から来た間の表し方で、昼を6分割、夜を6分割し、一日を12分割とします。そして、その一分割を一刻とし、方位の表現と同じ呼び方である十二辰、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥で表しました。一日を12に分けたので、一刻は2間になります。

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十二辰刻不定から24間定法へ

辰(じしん)には定法と不定があり、「延喜式」などに出てくる政や暦の作成等では定法(十二辰刻の)を採用していたようですが、一般庶民の生活では不定が使われていました。

不定というのは「日の出」と「日の入り」を基準にして間を決める方法で、現在私たちが使っている、毎日同じ間を刻む(定法)のではない間法です。「日の出」「日の入り」は季節によって変化しますから、冬至の頃は昼が短いため一刻も短く、夏至の頃は昼が長くなるので一刻も長くなるという具合。冬至の頃は日の出が6半頃、夏至の日の出は4半頃ですから、昼と夜の一刻には大きな差が生まれます。夏至の頃の明け六つから暮れ六つまでは15間50分にもなり、昼間の一刻は2間40分に。夜間は一刻が1間20分ほどになるのです。冬至の頃は昼と夜の長さは逆になります。

体内計という点からすると、太陽と共に起きて日が沈むまで仕事をするという生活は、至極自然な気がします。そんな間の捉え方であれば、現代のような間に追われる生活とは違った感覚だったのではないでしょうか。不定と刻み方であれば、もっとゆったりと穏やかにを過ごしていたような気がします。ただ、だからといって、この代の人々が間に疎かったというわけではなさそうです。

「お江戸日本橋 七つ立ち」の歌に残っているように、旅立ちは七つが一般的だったようですから驚きです。明け六つの前が七つですから、夏場なら早朝4頃の旅立ちです。江戸代には朝6には奉行所の門が開かれていたそうですから、早朝から、旅に出かけたり、仕事を始めることを当然としていたようなのです。ガス灯はついたとはいえ、電気の普及もままならない代ですから、朝は太陽と共に起きて、陽があるときを大切に過ごしていたのでしょう。ご先祖様たちは大変勤勉で働き者だったのだと気づかされます。



暦のはなし~十二辰刻不定時法

不定時法 時

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