暦はどこでつくられる?
660年に天智天皇が水時計を作って以来、時間の管理は「陰陽寮」の漏刻博士が担当していました。「陰陽寮」とは安倍晴明で有名な占術を司る陰陽師のいる部署です。そこでは、天文博士が太陽や月や星を観測し、占術を行い、暦作成は暦博士が別に行っていたようです。しかし、その頃の暦は中国でつくられたものをそのまま導入していただけでした。
貞享元年(1684年)、800年程使われた「宣明歴」に2日ほどのずれがあることを突き止めた渋川春海らによって、日本独自の暦「享保暦」が作られ、幕府主導による改暦が行われます。その為、それまで朝廷方の土御門家が行っていた編暦は、幕府の「天文方」が担当することになり、以来、明治の改暦まで幕府「天文方」により暦が作られてゆくことになります。
さて、時代は変わって、現在の暦はどこで作られているのでしょう?何千年も前から暦は天文を調べて作られますから・・・そうです「国立天文台」です。国立天文台では毎年2月の官報で、翌年の「暦要綱」を発表します。国際的な基準暦に基づき太陽や月、惑星の位置を調べ、そこから年ごとに変化する春分や秋分の日、冬至・夏至をはじめ、その年の日蝕月蝕や宇宙の動きなども公表されています。
幕府天文方から東京天文台へ
冲方丁の小説「天地明察」でご存じの方も多いと思いますが、改暦以前の天文観測は暦作成の為に行われ、これらに携わっていたのが幕府の天文方と呼ばれる人々でした。しかし、明治の改暦と共にそれまで浅草にあった幕府天文方の観測所は取り壊しとなってしまいます。
*左の絵は葛飾北斎による浅草天文台(頒暦所)が描かれた「鳥越の不二」
その後、本郷の東京大学内に天文台が設置され、新たに明治21年に麻布に天文台が立てられます。これが、現在三鷹にある国立天文台の前身である「東京天文台」です。グレゴリオ暦の導入により暦の為の観測は必要なくなり、東京天文台は西洋の「天文学」という新分野を学ぶ中心となっていきました。
たった140年ほど前に始まったばかりの日本の天文学ですが、今やハワイにすばる望遠鏡、チリにアルマ望遠鏡を設置し、さらに、TMT(30メートル望遠鏡)への参加など、世界でも最先端の研究がなされるようにまでになったことは驚嘆に値します。
和算の発展と暦
日本式の天文学は太陽太陰暦の作成という独自の方向へ向いてはいましたが、日本での観測を元に作られた渋川春海の貞享暦や、ケプラーの楕円軌道理論を取り入れた高橋至時の寛政暦からは、精巧な観測結果による精度の高さが伺えます。それらは、日本独自の算学である「和算」の発展からもたらされたものだったともいわれていて、独自に発達した算学、和算の水準は高く、世界的にも引けを取らないほど進んでいたことがわかっています。
江戸時代の日本では、算術書がベストセラーになるほど多くの人に読まれていたといいます。その頃の人びとの暦への関心も高く、日蝕や月蝕など空に起る天体ショーを楽しむほど知的好奇心に溢れていたそうです。明治になって政府指導で和算から洋算へ転換を強いられたことになり、日本オリジナルの和算が衰退してしまったのは本当に残念です。ただ、近ごろは入試問題で使われたりして見直されてきているようで、うれしいことですね。
江戸時代に大流行したという吉田光由の算術書「塵劫記」の中にこんな問題があります。これらは比較的有名な問題ですので、解答は【油分け算】【盗人算】で検索するとすぐに出てきます。問題を作った人の頭の良さが伺えますね。是非挑戦してみてください。
【油分け算】
油が1斗入った桶がある。これを2人で等しく分けたいが、7升の桶と3升の桶しかない。この2つの桶だけを使って5升づつ等分するにはどうすればいいか?(一斗=10升)
【盗人算】
盗人が盗んだ反物を山分けしようとしている。最初に8反づつ分けたら7反足りない。7反づつ分けるとこんどは8反余ってしまった。果たして盗人は何人いたのか?そして、盗んだ反物は何反あったのか?
暦のはなし~天文と和算
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