法然上人と浄土宗
令和二年2月6日(水)寺ネット・サンガ「坊コン」が日本橋のルノワール貸会議室で行われました。宗祖シリーズ第5回は「法然という人がいた」をテーマに浄土宗の吉田健一さんのお話です。
【鎌倉仏教のトップバッター・法然さん】
法然上人の話は「平家物語」の後半に出てくることでも知られています。
平清盛の五男の平秀衡が南都を焼き尽くします。その際、奈良の大仏を焼き落としてしまいます。後に政権が変わると、そのことで秀衡が重罪人として捕らわれてしまうのです。鎌倉(処刑される)に行く前に、願いを一つ叶えようと言われた際「法然に会いたい」と願い、法然と会う場面が出てきます。法然上人に「お念仏をお唱えすれば、誰でも必ず往生できる」と言われ、秀衡は覚悟を決めて鎌倉に処刑されに行くことになるのでした。
また、平敦盛の場面でも法然上人が出てきます。関東の荒武者である熊谷直実が、敦盛の首を斬ることになるシーン。紅顔の美少年と誉れ高い敦盛が、自分の息子とさして変わらぬ14~5歳頃なのを見て、殺すことを躊躇します。しかし、殺さないわけにもいかず首を取るわけですが、そのことを後悔に思い悩みながら、出家するために法然を訪ねます。腕の一本足の一本を落としてから来いと言われるのをも覚悟していたけれども、「お念仏を称えれば大丈夫」と言われ、その言葉に感銘を受けハラハラと涙を流したといわれています。
ここまでの話で「法然さんって“お念仏を称えなさい”としか言っていないじゃあないか」と言われそうですが、そうなんです。法然上人は「ただ一心にお念仏を称えなさい」としか勧めていないのです。究極、“お念仏を称える”ことにいきつくわけなのです。
ですから、法然上人の教えというのは、色々な人に、身分関係なく広まっていきます。
法然さんは円満で穏やかな方。そして「智慧第一の法然房」と言われるように知識の豊富な方です。その人がただただ大丈夫という。そのことに救われるというのが、私にはなんとなくわかるんです。理屈を並べてどうこうというよりも、切羽詰まった人が何を求めているか?ということに対して「大丈夫だよ」と言われたら安心する。
そんなことから宗教者としての懐の深さを感じています。
法然上人が鎌倉仏教の中でどんな位置付けにあるのかというと、平安末期から鎌倉にかけて活躍された方ですが、鎌倉仏教においては一番最初のトップバッターであるわけです。
元々比叡山で修行をされた方ではありますけれども、その中で「自分の救われる道は?」ということで、最終的にはお念仏にたどり着く。ただ、お念仏というのは別に法然上人のオリジナルなものではないんですね。あくまでも、インド、もっと言えば中国で栄えた浄土教を、日本において純化させ広めたわけです。それまではいろんな行をやることが良いこととされていたのを、法然上人が、「極楽浄土に往生するには南無阿弥陀仏と口で称えるお念仏が一番なんだよ”」ということをきわめて言った方なんです。法然上人自身がそのことに救われたわけですから・・・。
ただ、旧来の仏教を信仰している方々からすると、それは異端だということになったわけです。法然上人はもちろん革命を起こそうとか、他宗派を攻撃しようとか何とかということではなく、自分が救われる道はこうであるという中でそれを突き詰めていったところ、周りとの軋轢が生まれたんでしょうね。
南都の奈良仏教、あるいは比叡山でもそうですけれど、お釈迦様や薬師如来といったほかの仏様をないがしろにしているのではないかと批判されてしまう。あるいは、当時、鎌倉時代ごろは神仏習合が成立している時代でしたから、神様に関しても、否定したわけではないのに、ないがしろにしていると攻撃を受けてしまう。軋轢をうむことが法然上人の本意ではないのですから、上人は弟子たちに、他宗派を否定したりするなと、ずっと戒めてはいるんですね。
もともと、お念仏自体は以前からありました。浄土教は中国でも栄えたのです。それが中国から日本に来て、特に平安時代には日本でも浄土教が非常に栄えました。源信の「往生要集」もそうですし、宇治平等院なども極楽を模ったとも言われていますが、色々な人達が極楽を目指し、阿弥陀様をお迎えしようとする信仰がありました。当然「南無阿弥陀仏」という口称念仏も既にあったわけです。また、そのお念仏のやり方も、口で称えるのではなく、観想念仏など方法も色々とあったのです。もちろん法然上人もそういった他のお念仏のやり方にも触れています。元々、天台宗の比叡山で修行をされているわけですから。
【法然上人の生まれについて】
1、誕生・・・1133年(1才)4月7日美作国、押領使・漆間時国の子として生まれる。
2、父の遺言・・・1141年(9才) 父・時国は明石定明の夜襲に遭い負傷。→父は相手に恨みを持ち仇討すれば、相手側も恨みに思い、仇討は尽きることがないことを説き、出家をし菩提を弔うよう遺言。
3、母への想い・・・1145年(13才) 菩提寺の勧覚(母の弟)の弟子になる。その後、比叡山に登るよう勧められる。→母との別れ
4、比叡山へ・・・1147年(15才) 比叡山に登り源光に師事するも、勢至丸(法然の小さい頃の名前)の才能を見抜き、皇円阿闍梨(天台宗の高名な学僧「扶桑略記」の著者)の室に預け出家受戒。法然房源空と名を受ける。→いづれ天台の座主になるであろう・・・
5、法然房源空・・・1150年(18才)しかし、自身の昇進や栄達に関心はなく、比叡山西塔の別所黒谷の青龍寺の叡空の室に入り、43才まで過ごす。
【法然 愚かさの自覚】
いづれ天台の座主になるであろう・・・。
これだけのことを言われていても、法然上人の中では、何か悟りに近づいている様な感覚ではなかったようです。やればやるほど、自分の中の暗さ、闇みたいなものが恐らく沸々と見えてくる。心が研ぎ澄まされていけば禅定になって、問いが開ける境地になるかと思えば、逆にどんどん自分の厭らしさ、暗さ、弱さが見えたのかもしれません。
その陰には、よく言われるのがお父様の死(目の前でお父さんを殺されるわけですから)や、お母様との今生の別れなど、そういったこともあるんじゃないかと思います。沢山の修行をして聖人になろうとしても、やはり敵を恨むなどのモヤモヤした悲しい気持ちも尽きないし、毎日のように経文を読んでも、泣きながら、悲しみに暮れながら、自分に合ったものがないかと思い悩みながら学んでいた法然さん。
その法然上人が43才の時に、今まで何遍も読んでいるはずの善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』(善導大師は中国の唐の時代のお坊さんです)の一文に心が震えた。時代も場所も隔てられておりますけれども、
「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行往坐臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる、是れを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に」
この一文を見たときに法然上人はこれだ!と思ったわけです。
恐らくそれまで何度も読んだであろう一文だったろうと思いますが、それまでは通り過ぎていたものが、ある程度の心の深まりの中で、パアッと文章が出てくる、そんな時もありますからね。
法然上人は自分が悟りを開く、自分がある種”仏になる”というところから、いや実は、仏の方から常に手が差し伸べられているんじゃないかと。そのことに何で私は気が付かなかったのかと。私の為に阿弥陀如来は菩薩の時に、長い間修行をされて阿弥陀如来になられた。しかし、私は自分が自分がと私のことばかりでいっぱいだったと気づいたわけです。
この気持ちを歌に歌ったものが
月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ 法然上人
★浄土三部経(じょうどさんぶきょう)とは、『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の三経典をあわせた総称である。法然を宗祖とする浄土宗や親鸞を宗祖とする浄土真宗においては浄土三部経を根本経典としている。「観経疏」とは浄土三部経のうちの一つで、『観無量寿経疏』その注釈書。
【法然上人著「選択本願念仏集」より】
「しかればすなわち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもって本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもって本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも、智慧のものは少なく、愚痴のものは甚だ多し。」
裕福で、仏像を建立したりすることをもって往生の本願とするのではない。法然上人は仏の本願は往生においては一番貧しく弱い人たちをこそ救わなければならないと言っている。なぜならば仏がそういう人たちも含めすべての衆生を救いたいと願ったのだからと。往生するのに貴賤、優劣の条件を付けないのです。
お念仏を称えたら往生する。往生とは極楽浄土に生まれることです。成仏することは不退転である。人の区別はないと。
吉田さんはそんな極楽往生についての概念を、今のフリースクールに例えてわかりやすく話してくださいました。誰でも望めば入れる、学びたい気持ちがあれば・・・と。
【お坊さんへの質問コーナー】
Q, 先ほどのフリースクールについて、他の宗派で言っている“仏性をもってる”というのと違うのでしょうか?
A,本覚思想的な智慧を踏襲しつつ、この娑婆世界ではなかなか芽生えない方のために、スリースクールという例えを出しました。それまでは大乗仏教の中からでてきていますので。
Q,そこへ行くための入学申込書のようなものが念仏だと考えればいいのでしょうか?
A,そうですね一番簡単な手続きだと。お念仏を称えれば、行きたい人がいけるというね。簡単であるが故にすぐに行けるという考え方でしょうね。
浄土できるんだろうか、極楽ってあるんだろうかと疑いながらも、一心にお念仏を称えるとかいてありますけれども、実際じゃあ、すべての人がお坊さんを含めて本当に浄土というものを信じ切ってやっているかというと、さっき私が言ったように、あって欲しいという願望も含めて、お念仏をお称えすることには意味があるんですよと言っています。
Q,日蓮宗の霊山浄土(りょうぜんじょうど)と極楽浄土の違いって?
A,霊山浄土というのは日蓮宗でいうところのお浄土なんですが、お釈迦様が常にそこで説法をされていて、そこで説法を聴きながら仏に成っていく、というような意味合いでしょう。
Q,浄土宗は何度もお念仏を称える、浄土真宗は信じれば一遍でも称えればいいというイメージの違いがあるのですが、浄土宗はお念仏をいっぱい称えた方がいいのでしょうか?
A,法然上人は「一丈の堀を越えんと思わん人は、一丈五尺を越えんと励むべし」といっているんですね。それというのは、我々はどうしても迷いが生じやすい。浄土真宗でも「信」を大切にされていると思いますが、一回で大丈夫だよと言われても、凡夫である私はそうなんだ!って理解よくいくか?ということなんですね。一遍でも往生できますが、何べんも称えることで信が定まって安心できるような人もいますから。
その他、
成仏と浄土に行くの違いが良くわからないです。亡くなって直ぐに仏になれるのだったら、七日七日っていらないのでは?ほかの宗派では亡くなった後どうなるのでしょう?宗派が違うと浄土も違うようだけれど、亡くなったあと別々のお浄土に行ってしまったら会えないの?
などの質問もありました。(文字制限の都合上、割愛させていただきました)
【吉田健一さん御詠歌を歌う】
♪月影の御詠歌を歌う♪
月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ (法然上人)
♪蜂巣の台(うてな)の御詠歌♪
さきだたば おくるるひとを まちやせん はなのうてなの なかばのこして (古歌)
♪「光明摂取の御和讃」を歌う♪
1.人のこの世はながくして かわらぬ春とおもいしに 無常の風はへだてなく はかなき夢となりにけり
2.あつき涙のまごころを みたまの前にささげつつ ありしあの日のおもいでに おもかげしのぶもかなしけれ
3.されど仏のみ光に 摂取されゆく身にあれば おもいわずらうこともなく とこしえかけて安からん 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 阿弥陀仏
ハリのある柔らかな歌声が会場いっぱいに響き渡ります。これらの御詠歌はお通夜の際に、吉田さんが実際に歌うそうです。その優しい歌声に涙ぐむ方もいらっしゃいました。
【信仰を持つこと】
我々は未だ来ぬ「未来」に囚われ、漠然とした恐怖を抱きます。信仰を持つということはある意味、仏様にすべてを任せられることだと思います。我々にはどうすることもできない後生のことはよろしくお願いしますと。そして今の自分を主体的に生きる道を得るのです。
特に避けられない未来として「死」の問題は潜在的な恐怖となるでしょう。とりわけ愛する人との死別は、生きて行く上で最も辛く悲しい現実です。だけど大丈夫と。
愛する人が亡くなって今はとても深い悲しみにある状況だとしても、亡くなった後で必ず会えるという希望を持ちながら、来世に想いを馳せ辛い現世を生きていく・・・そんな心の拠り所としての信仰もあるのではないかと思います。と吉田さんが結びました。
阿弥陀様の仲立ちによってお浄土でまた再会できる・・・そんな浄土宗という宗派って私はいいなって思っています。とおっしゃっていたのが印象的でした。
法然というひとがいた~寺ネットサンガ「坊コン」
法然 浄土宗