日遠聖人の出自
永寿院の開山、初代の住職とされている心性院日遠聖人(しんしょういんにちおんしょうにん)は、江戸時代初期、学問の研鑽、身延及び池上の経営、檀信徒の教化に多大な功績を残し「宗門中興の師」と尊称される高僧です。
元亀3年(1572)京都に生まれ、6歳で出家。16歳で法華を講じ、聴衆はその神童ぶりに驚嘆したといわれます。
28歳で宗門の研究機関「飯高檀林」の化主となり、33歳で身延山久遠寺の第22世住職となりました。
写真1は池上本門寺歴代廟の日遠聖人の百遠忌に建てられた供養塔です。
慶長法難
慶長13年(1608)徳川家康は日蓮宗諸寺に対して浄土宗の教えを認めよと命じ、法華の勢力を抑圧しました。
身延の日遠聖人はそれを断り、浄土宗と法論をさせよと申し入れたので、家康の怒りを買い、磔刑に処せられる事にまでなりましたが、家康側室の「お万の方」の嘆願により赦免されます。
これら幕府による法華教団への一連の弾圧を「慶長法難」といいます
日遠聖人はその後ただちに身延を退き、大野山本遠寺(現山梨県身延町大野)に隠棲しました。
写真2は、大野山本遠寺の開山御廟です。
身池対論(しんちたいろん)
当時宗門は、法華の信者ではない国主(将軍や大名)の命令による法要に出仕するか否かで二派に分かれていました。
寛永7年(1630)徳川家の法要に出仕した身延と、出仕しなかった池上とで、幕府は法論を行わせました。幕府の権力に庇護された身延側が勝利します。
そして幕府は、双方を一つにまとめるために身延の日遠聖人を池上本門寺の第16世住職となるように命じました。
しかし、日遠聖人はすでに大野山本遠寺に隠居していた身であるため、池上入山の翌年には弟子の日東聖人に本門寺17世住職を譲り、自らは鎌倉の不二庵に60歳で隠居してしまいました。
鎌倉隠棲後、日東聖人が日遠聖人の隠居所として池上に造営したのが永寿院の始まりだとされています。
そこで、永寿院の開山を日遠聖人、第2世を日東聖人とし、開山当初は日東聖人の院号「蓮乗院」で呼ばれていたそうです。
日遠聖人は、寛永19年(1642)正月に病にかかり、2月に池上に帰り、3月5日71歳で遷化されました。
今から371年前のことです。
写真3は、池上本門寺歴代廟の日遠聖人・日東聖人の墓標です。
日遠聖人について
心性院日遠 慶長法難