延命措置と尊厳死・病名の告知
近代の延命治療の発達によって、意識がなくなり寝たきりになっても生かされることが出来るようになりました。
本来、お迎えは「待つ」ものですが、延命措置によってお迎えを「待たせる」ことが出来るようになってしまいました。
それに対して、病気や認知症で意思表示ができなくなる前に、延命措置を断り、人としての尊厳を保ちながら、生を全うしようというのが尊厳死です。
自分はどうしてほしいかをよく考え、周りに伝えておくといいですね。
不治の病だと告知を受けたら、誰もが迷い悩むはずです。
ドイツの精神科医キューブラー・ロスは、人は死を受容するにあたって「否認→怒り→取引→抑うつ→受容」の五つの段階を経ると述べています。
取り乱したり、怒ったり、神仏にお迎えを待ってほしいと頼んだりしながら、徐々に死を受け入れていくのだそうです。
告知を受けるかどうかによって、治療方針や残された時間の生活の質、家族との接し方などが大きく変わってきます。
自分の性格や病気になった時の状況を想定しながらよく考えててみてください。
いのちは誰のもの?
尊厳死や告知について判断するためにどんなことを考えますか?
自分の立場から考えると「家族に負担をかけたくない」「お金がかかる」「苦しい治療をしたくない」などさまざま挙げられると思います。
家族の立場からすると「少しでも長生きしてほしい」「苦しむ姿を見たくない」「看護の負担が…」など、立場が変わると考え方も変わってきます。
第三者の立場で客観的に見ると、延命措置はせず、告知を受けて丁寧に人生を締めくくるのが理想だと思います。
でも自分が当事者になったら大いに迷い、悩み、苦しみ、簡単に答えは出せないでしょう。
人はいつ死ぬのでしょう?
その人を覚えている人が生きている間、歴史上の人物として人々の記憶に残っている間、お墓参りがある間、その人のいのちが存在しているといえるのではないでしょうか。
ご先祖さまのDNAが私たちの中に受け継がれているうちは死んでいないともいえると思います。
そこまで考えるといのちの終わりを決めるのは、自分や他の人間ではなく、さまざまな縁や仏さまのおはからいによるということになるでしょう。
また、いつお迎えが来て、どこに連れて行かれるのかも、仏さまにおまかせするしかありません。
お迎えを待つ
日ごろから冷静に生と死を見つめ、安心してその時を迎えられるような信仰生活を送りたいものです。
法華経に説かれる大いなる仏さまと一つになり、いのちそのものは永遠であると信じ、お題目を唱えることで亡き方ともいつでも語り合えると思えば、死は怖いものではなくなるはずです。
そうは言っても、いつまでも生きていたいと願うのも人間です。
生まれたその時からお迎えを待っているのも人間です。
お迎えが来るまでの待ち時間をいかに過ごすか。
それが人生最大の修行ですね。
まんだら
延命 告知