供養について考える 永代供養に対する誤解 供養 永代供養

永代供養に対する誤解

「子供に迷惑をかけたくない」「単身者で跡継ぎがいない」「費用が掛からない」などの理由で永代供養墓を求める人が増えています。
しかし永代供養とは、供養をしないということではありません。
住職やお寺を支える檀家さんたちが、ご遺族に代わって亡き方の供養をし続けるということです。

亡き方は、生前に積んだ功徳と、現世からの供養を糧として仏への道を歩んでいます。
その糧を送るのが追善供養です。年回法要やお墓にお花やお線香を供えるのも追善供養です。
お寺では毎日のおつとめや、施餓鬼会や彼岸会の法要行事で檀信徒の皆様と一緒に供養をして、永代供養の霊位のご回向を続けています。
自分の死後、お墓の管理費を払わないから安心なのではなく、追善供養をしてくれる人がいるから安心なのだとお考えください。


三宝への供養

仏教ではまず「仏・法・僧」の三宝への供養を大事にします。
仏・法・僧をオーケストラに例えると、教えを説いた「仏」は作曲者、いのちの真理ともいうべき「法」は楽曲、正しい教えに導く「僧」は指揮者にあたるのではないかと思います。
この三つが揃ってこそ、本物のいのちの調べが奏でられるのではないでしょうか。

故人に供養をするときに「心さえこもっていればお坊さんは呼ばなくてもいいのでは」「形だけの供養は要らない」などの声を耳にします。
どんなに演奏者が心を込めて演奏しようとしても、「作曲者・楽曲・指揮者」のどれか一つでも劣っていたら心に響く演奏はできません。

供養も同じことで、本物の仏=お釈迦さま・本物の法=法華経・本物の僧=日蓮聖人の三宝が揃ってこそ本当の供養ができるのです。


供養は双方向

その本物の三宝のお力をかりて亡き方への糧をお届けする追善供養をしていると、供養は一方通行ではなく、向こう側からも返してくれると感じます。

永寿院では、約十年にわたって、江戸時代の大名家のお墓や古墳や弥生時代の遺跡などの整備と調査を行なってきました。
お墓を一時的に解体する際などに、心を込めて供養をさせていただくと、数百年・数千年前の方々と心がつながり、ともにお題目をお唱えしているような感覚を覚えます。
供養の思いを届けると感謝の思いを返してくださると、身をもって体験しました。

最近は仏事全般が縮小傾向にあります。
20年前は20~30名の規模が一般的だった法事も最近は、ほとんどが10名以下です。
高齢化や少子化の影響や葬儀社が家族葬を勧める傾向にあることも一因だと感じます。
仏事の簡素化の中で、亡き方とコミュニケーションを取ることができるという感覚が失われていきます。
さらに親族間や親子のコミュニケーションすら希薄になってきています。

安くて簡単が良いことだという情報に流されることなく、過去を生きた先人や、今を共に生きる多くのいのち、そして未来の子どもたちともつながっていると感じられるような本当の供養の場を大切にしてください。

まんだらエンディングノート

供養 永代供養

供養について考える永代供養に対する誤解