土産と餞別
「冥途」とは、死者の魂が行くところ。
日本では中世以降、末法思想が広まり、地蔵十王信仰の流布と共に、冥途には三途の河、賽の河原等があり、閻魔大王とその部下の役人多数がいて、人の罪の軽重をはかり、お裁きをするのだといわれてきました。
初七日から七七日(四十九日)までの七日ごとに七回と、百か日・一周忌・三回忌の合計十回、順次お裁きが行われ、よい判決が出るようにと遺された人たちが供養の思いを届けるのが中陰(ちゅういん)法要です。
たとえて言えば、旅先で受け取れるように旅費を送金するような感覚であり、「土産」というより「餞別」でしょうか。
「冥途の土産」は、冥途へ行く人が持参する土産で、生きているうちに準備するべきものでしょう。
「美味しいものを食べた」「楽しい経験ができた」などそれを手に入れて初めて安心して死ねると思えるような土産を準備するわけです。
最近、高齢者が明日死ぬかもしれないからと、無理難題を要求してくることを「冥途の土産ハラスメント」というそうですが、冥途の土産とワガママとをはき違えては困りますね。
冥途の土産は店先で簡単に買えるものではありません。
「陰徳あれば陽報あり」といわれるように、人知れず善行を積み重ねていれば、いつしか「仏さまのような人」になり死後の旅も安心なものになるのではないでしょうか。
法華経『薬草喩品』に「現世安穏 後生善処」(法華経を信じる人は、現世は安穏であり、後生は善い世界に生まれる)という経文があります。
法華経信仰が最高の土産であり餞別になると信じることが旅支度の始まりだと思います。
思い立ったら土産の支度を
「冥途の土産」という言葉を口にする年齢はというと、七十代以上でしょうか。
しかし死後の安心という土産は、すぐに準備できるわけではありません。
日蓮聖人は『妙法尼御前御返事』というご遺文の中で、
「人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬(たとえ)にあらず。賢きも、はかなきも、老いたるも、若きも定め無き習ひなり。されば先(まず)臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」と、
人の寿命はいつ散ってしまうかわからないものであるから、まず臨終のことをよくわきまえて、その後で他の事を考えるべきであるとおっしゃっています。
老いも、若きも関係なく、思い立ったら土産の支度をいたしましょう。
引導文
「冥途の土産」が用意できなかった方のためには、餞別も用意されています。それが葬儀の際に導師が読む引導文です。
引導とは、迷える人を導いて、仏の教えに引き入れること。
葬儀にあたって、導師が故人に対して迷いの世界から悟りの世界に入る心構えを説ききかせるものです。
日蓮宗の引導では、法華経の要文や、日蓮聖人の御遺文などを引用して、死後の安心を説き示します。
また人の世に訣別して、お釈迦さまのもと「霊山浄土」に赴くにあたって教えを説くという意味で「教訣(きょうけつ)」ともいわれます。
日蓮宗の檀信徒の引導文の中で、よく読まれる日蓮聖人のご遺文に
「この法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥途にては灯となり、霊山へ参る橋なり。霊山へましまして艮(うしとら)の廊(わたりどの)にて尋ねさせ給え。必ず待ち奉るべく候」という一節があります。
日蓮聖人を訪ねてくれば大丈夫という、これ以上の安心を与えてくれる餞別はないでしょう。
ただし、その日蓮聖人のお言葉を信じ切れるかどうかは、生前の信仰次第ということになります。餞別を受け取るにしても、それなりの準備は必要です。
どうぞ仏道修行にお励みください。
冥途の土産
冥途 土産