父の遷化
本年正月、父が遷化(僧侶が逝去すること)しました。
父は若いころから大酒飲みで毎日晩酌を欠かすことはありませんでした。
亡くなる前の晩もいつもと同じように酒を飲み床に就き、翌朝起きてこないので家族が見に行ったら、息をしていなかったとのことです。
いびきをかきながら息を吸うのを忘れているうちに逝ってしまったのではないかと思われます。満84歳、ピンピンコロリの穏やかな死に顔でした。
ピンピンコロリを望む人は多いなか、実際にポックリと逝く人はほんの数パーセント、よほど運のいい人に限られるそうです。
父の死因は心筋梗塞で、死亡推定時刻は午前四時頃とのことでした。
もし発見が早く、救急搬送され救命措置が施されていたら、点滴や胃ろうなど延命医療のもと何年も寝たきりになっていたかもしれません。
また、ピンピンコロリによる突然の死は遺された側にはショックが大きいともいわれます。
しかし父の場合は、正月に孫や親族とも団欒し、まるで皆にお別れのあいさつをした後に逝ったので、遺族の精神的な負担も少なく済むようにと気遣ってくれた気がします。
孤独と向き合う
父は30年ほど前に心筋梗塞を患い、その後何度も発作を起こしては救急車で運ばれて、入退院を繰り返していました。
退院後しばらくは酒を控えますが、いつの間にか以前と変わらぬ飲み方に戻ります。
10年前に私の弟に実家の寺の住職を譲り、引退してからは、昼間は自室に引きこもり何もしないで過ごし、夕方の酒を楽しみにしているような生活を続けていました。
今考えると父は持病を抱えながら孤独と向き合う生活を続けてきたのではないかと思います。
毎夕、酒を飲んではストレスを発散し、知人友人と飲んでは昔の自慢話をして、自分の生きてきた意味を確認するような人生。
息子としては少々寂しいような思いと、よく長い孤独に耐えてこられたなという同情の念を、葬儀を終えてしみじみと感じています。
自分もこれから年齢を重ねていく中で、前を向くばかりでなく、後ろを振り返りながら、静かに孤独を味わうときが来るのだろうか。
その覚悟もしておかなければと教えられました。
臨終正念
「臨終」とは死期せまって命の終わる間際のこと。
「正念」とは八正道の一つで、心を動揺させずに安定し正しく仏を想念し続けること。
「臨終正念」とは死期に臨んで、心乱れて邪念を起すことなく、平常心を保ち仏道成就を正しく念じつつ死を迎えることだといわれます。
日蓮聖人は『上野殿御返事』というお手紙の中で
「故親父は武士なりしかども、あながちに法華経を尊み給いしかば、臨終正念なりけるよしうけ給はりき」
(貴殿の亡き父上は、武士でしたけれども、熱心に法華経を信仰なさったので、安らかなご臨終を迎えられたとうかがいました)
と記されています。法華経信仰による死後の安心を教え諭す文章です。
寝ているうちに逝ってしまった私の父ですが、隠居してからも、晩酌だけなく本堂で朝のおつとめは欠かさずにしていたそうです。
日蓮宗の僧侶として法華経を信仰してきたゆえの臨終正念であり、孤独に耐えてきたご褒美がピンピンコロリだと信じたいところです。
余談ですが、今回ご紹介した『上野殿御返事』の書き出しは、「聖人二管」など供養の品を送られたお礼から始まります。
「聖人二管」とは「すみざけふたつつ」と読み、清酒の筒が二本という意味です。
酒好きの父にもこのご遺文を送ります。
ピンピンコロリ
ピンピンコロリ ポックリ