「墓は要らない」と 「墓を守れない」
「墓じまい」を選択する理由には「墓は要らない」と「墓を守りたいけど守れない」という二通りがあるように思います。
前者は、自分は無宗教だからお墓に意味を見出せない・お墓の管理費や墓参の手間が子供たちの負担になるからと跡取りが居ても墓じまいを考えるなど、個人的な価値観によるものです。そのような方は、死後の管理がいらない散骨や樹木葬などを選ぶようです。
後者は、子どもが居ない・遠方でお参りに行くことができない、供養したい気持ちはあるけれど十分な供養ができないことが心の負担になる、それならばと、やむをえず墓じまいをと考える人たちです。
高齢となり、元気なうちに自分の責任において、墓じまいをして安心したいという思いが強いと同時に、自分の死後の供養も心配になると思います。お寺が代わりに墓を守る永代供養や合祀墓に改葬する方法もあるので、お寺によく相談されるとよいでしょう。
お墓の意味
お釈迦さまのご遺骨は仏舎利として塔を建て供養され、それとともに仏法もまた世界中に広まりました。
仏舎利塔と同じようにお墓には、死者を祀り先人の思いを受け継ぐ意味があります。家業を代々受け継ぐことを大切にした時代には、お墓はご先祖さまを敬う大切な場所でした。
しかし、人・モノの移動や情報の伝達のスピードが格段と速くなった現代の人々は、定住する家もなく、一生勤め上げる仕事もなく、また過去の価値観に縛られることもないかのように暮らしています。
現在、コロナウイルス感染防止に伴い、人の移動が制限され、経済活動や文化活動が縮小されると限られた地域や家庭の中で、いかに良好な人間関係を維持していくかが課題となっています。
昔ながらの近所づきあいや、三世代同居の中にある「しきたり」や「たてまえ」など、先人の知恵を見直すときなのかもしれません。お墓参りをしながら、ご先祖さまの苦労に思いを馳せることもまたお墓の意味ではないかと思います。
お墓の力
日蓮聖人の『光日房御書』というご遺文に、
「又にしきをきるへんもやあらんずらん。其時、父母の墓をもみよかしと、ふかくをもう」
(法華経が広まったその時こそ、故郷に錦を飾り、両親の墓参をしたいと深く思う)
と、身延に入る前のお気持ちを綴られています。
いつか亡き両親の墓前に報告に行くことを励みにされていたのでしょう。
亡き方のことを思い出し、会いに行く場所がお墓です。そこで故人と語り合い、自分の生き方を見詰め、決意新たに一歩を踏み出す力を与えてくれる場所にもなると思います。私も父を亡くしてから墓参をするたびに、生前のことを思い出したり、近況報告をしたりしながら、明日への力をもらっています。
「お墓は要らない」と考える人も、「お墓を守れない」と悩む人も、あるいはお子さんのいない方や単身者も、皆同じ時代を生きたものとして、等しく子孫たちから「ご先祖さま」と呼ばれる時が来ます。
その時に、お墓の中で誇り持っていられるように、今を大事に、精一杯生き切りたいものです。
そして、誰にでもご先祖さまはいらっしゃいます。
お墓の中で子孫たちの思いを受け取ったご先祖さまたちも、笑ったり泣いたりしながら力をもらっているのだと思います。
それが追善供養というものではないでしょうか。
お墓とは、生者も死者も、拝み拝まれ、力をもらえる場所だと思います。
お墓の形は時代とともに変わっても、お墓の力は変わらないと思います。
墓じまいを考える前に、「お墓の力」を感じてみてください。
まんだらエンディングノート
墓じまい 墓は要らない