老いの不安
六十代になると身心や社会的立場の大きな変化が現れます。
私も満六十二歳となり、徐々に体力や記憶力の低下をじわじわと感じるようになりました。
この先、大病を患うかもしれません。認知症になるかもしれません。
介護が必要になるかもしれません。
不安を数えていけばきりがありません。
しかし、元気な時には病気になることや寝たきりになることなど考えたくはありません。
「起きてほしくないこと」は、「起きないこと」だと根拠もなく決めつけてしまうものです。
そんな自分勝手な思い込み=執着にとらわれているから、いざという時に右往左往してしまうのす。
まだ体力も気力もそこそこある六十代前半、明日よりも若い「今」こそ、不安を不安のままにせず、しっかりと対応策を考え、「老いの支度」を始める時期だとわかってはいるのですが…
具体的な老いの支度として、食事や運動などの生活習慣の見直し・健康状態のチェック・病気や介護の情報収集・老後の資金計画など多岐にわたる項目が挙げられます。
長寿社会の現代は高齢者を対象にした情報があふれています。
情報に振り回されて不安を膨らまさないように注意をしなければなりません。
老いの奥にあるもの
法華経如来寿量品第十六に
「我今老い衰えて、死の時已に至りぬ。
是好き良薬を今留めて此に在く」
とあります。
お釈迦さまは、老いや死に怯え、生に執着して真実の生き方を見失っている私たちを目覚めさせるために方便として、ご自身も老い衰え、死が近いと示されました。
肉体の老死を見せることによって、逆に滅びることのないものを悟らせようとしたのです。
お釈迦さまの方便の死は、仏のいのちが永遠であることを示そうとしたものです。
私たちは、永遠のいのちを持つ仏の大きな慈悲に包まれて安住していられるのだから、それにふさわしい振舞いをしなければならない、仏の心持ちで大慈悲をもって人に接し、世の中を照らしていかねばならないと諭されます。
前項の「老いの支度」のほとんどが自分の生に執着したものばかりです。
まずは自分に執着しながらでも、心の奥にある仏の心で世のため人のためになる「老いの支度」も並行して進めましょう。
日蓮聖人の晩年
日蓮聖人は晩年の九ヵ年を身延で過ごされました。
それはご自身が亡き後の未来にも法華経が広まっていくようにと、弟子や信者を教え導く生活でした。
日蓮聖人は、各地の信者に書状を送り、あるいは弟子たちを各地に布教に遣わせて法華経を広めていきました。
その書状のやり取りと共に送られた供養の品々によって百人を超える日蓮聖人たちの身延の生活は支えられていたのです。
日蓮聖人の書状の内容は、親子の軋轢や宮勤めの葛藤に関する相談、・死別に悲しむ信者への寄り添い・権力からの弾圧に対する指示など多岐にわたります。
それぞれの信者の悩みに対して、法難を乗り越えてきたご自身の経験と、法華経の教えの中から答えを導き出し教示されています。
日蓮聖人のたゆむことのない法華経信仰と誠実な人柄に裏打ちされた書状だからこそ、信者たちはその教示に随い、迷いから抜け出すことができたのでしょう。
そしてその書状は御遺文として未来の私たちにも大切な宝となっています。
六十一歳でご入滅されるまでの日蓮聖人の身延の九ヵ年は、ご自身のためではなく、未来永劫に法華経を伝えるための「老いの支度」でした。
私たちも日蓮聖人のように、仏の心持ちで、仏の振舞をできるように心がけたいものです。
そのためにも健康に留意して「老いの支度」に励みましょう。
老い
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