理不尽な死
災害や事故のニュースを目にするたびに「理不尽な死」に見舞われた方々のことを思い胸が締め付けられます。
明日の予定・今年の目標・今後の人生など、いろいろなことを考えていたであろうに、未来を絶たれ無念の思いを残してはいないだろうかと…
理不尽な死は、災害や事故による突然の死に限りません。
病による余命告知を受けた人は、なぜ自分が死なねばならないのかと落ち込むでしょう。
自ら死を選ばざるを得なかった人は、自分がなぜそこまで追い詰められたのか冷静に判断することもできず、不条理な思いだけを残したかもしれません。
もとより死は誰もが避けられない理不尽なものです。
しかし、健康で悩みのないときには自分はいつまでも死なないと思っているものです。
人は理不尽な状況に追い込まれたとき、なぜ自分が苦しまなければならないのか納得できる理由を探します。
自分の思い通りにならないことに納得できないのは自己に執着しているからです。
執着を離れ、叶わないこともあるのだと納得できれば、あるいは納得できなくても自分なりの決着をつけられたら、対処法も見えてくるはずです。
世の中は様々に変化しながら移ろいでいきます。
周囲が変化する中で、自分だけはいつまでも変わらないと思い込むから執着が生まれます。
誰にでも必ずやってくる「変化」の最たるものが「死」です。
自分という存在が無くなるということは、どうにも受け入れ難い「変化」なのです。
メメント・モリ
「メメント・モリ」とは、西洋に古くから伝わるラテン語の格言で、「メメント」は心に留める、「モリ」は必ず死ぬことの意で、「死を心に留めて忘れてはいけない」ということです。
この格言には
「いつか死ぬのだから生に執着をするな」
「明日死ぬかもしれないのだから一日一日を大切に過ごそう」
「自分の死について考えておくと生き方が変わる」
など様々なメッセージが含まれていると思います。
その時が来てもうろたえることがないように備えておくことが「メメント・モリ」です。
あと何十年も時間があると思っている人にも時間の限りはあるのです。
「メメント・モリ」いつも死を心に留めて忘れずに生きていれば、今なすべきこと、残すもの、伝えることなどを丁寧に整理できるのではないかと思います。
「人生最後の日にどんな気持ちになっているか」「やり残していることはないか」「今死んでもいいように生きているか」考えてみませんか。
涅槃
「涅槃」は本来、生命の火が吹き消された状態、すなわち「死」を意味します。
また、「迷いの火を完全に消し、悟りに入った境地」も意味しています。
自我偈に「方便現涅槃」という句があります。
お釈迦さまは、自己に執着して真実が見えなくなっている私たち衆生に、変化の中でも変わらぬものがあることに気づかせるために、方便として肉体の死を示しました。
そして肉体は滅しても、常に私たちのそばで導き続けていると説かれています。
お釈迦さまの涅槃から現在に至るまで二千数百年もの間、その教えは伝えられています。
それが、仏さまはいつも私たちのそばで変わらずに存在していることの証明です。
私たちの死も、それが理不尽なものであったとしても、遺された人たちにさまざまな気づきを与え、心の中に生き続けることができると思います。
変化の最たるもの「死」を、普遍的な「悟り」として示されたお釈迦さまの「涅槃」は、「メメント・モリ」の最高のお手本です。
私たちも、何らかの良き足跡を残せるようにと、そのことを心に留めて日々を過ごしていきたいものです。
メメント・モリ
メメント・モリ 涅槃