浄土について
先日の雪がまだ溶けきらない1月15日。
寺ネット・サンガ「坊コン」は、八王子市延立寺の松本智量ご住職の「プチ法話」から始まりました。
仏教に救いや答えを探し求める人がいます。
しかし、仏教は「問い」として受け止めてほしいと松本ご住職はおっしゃいます。その理由は、仏さまが私たちに救いを与えてくださるにしても、「なぜ、私たちに救いが必要なのか」「助けられなければならない私なのか?」と自分自身の胸に問いかけることから始まるからです。
私たちは「死」について考える時、まず自分の死を考えます。
しかし生きている私たちにとって本当の試練は、自分の死よりも愛する者を失った時なのです。愛する者を失った喪失感、悲しみは一人で抱えきれるものではないという意味では、私たちの命というものは独立したものではなく、共有して成り立っているものと捉えることができます。
命を縁ある人々が共有している、その姿こそが浄土の姿ではないでしょうか、と松本ご住職はおっしゃいました。
浄土と極楽は違うのか
誰でも気になる死後の世界。
不思議なことに、私たちは死んだら浄土へ「帰る」と言います。
見たこともない、そしてあるのかわからない世界へ「帰る」となぜ人は言うのでしょう。
それは、待っている人がいるからだと松本ご住職はおっしゃいます。
どこかの特定の場所ではなく、関係性の中で存在している帰る場所。
松本ご住職は、「帰る場所はありますか」「誰かの帰る場所になり得ていますか」と私たちに問いかけます。
質問タイムでは「極楽と浄土は違うのか」という質問が出ました。
一般的には同じと捉えても良いそうですが、極楽のほうは安楽を求めるという願望の要素が強いそうです。
「嫌な人、受け入れられない人とも一緒に浄土へ行くことになるのか」という質問に対して、松本ご住職は、自分にとって都合の悪いことや嫌いなこと、またそういった人たちによって自分の命が生かされていることもあり、自分でコントロールすることのできない様々な事柄に囲まれて生きている私たちですから、「受容」=すべてを受け入れる姿勢も大切なのだとおっしゃいました。
自分が誰かの帰る場所になる
「浄土について」松本ご住職のプチ法話より、「私にとって帰る場所とは?」「自分は誰かの帰る場所になっているか?」というテーマでグループごとの談義に移ります。
6名ほどのグループ内で話し合った結果を、リーダー役のお坊さんが意見をまとめて発表します。
話し合いの声はだんだんと大きくなり、大変白熱してきました。談義の時間が足りないグループもあったようです。
・帰る場所=生まれ故郷ではないか
・自分が逝ったあとも遺された人たちを見守り続けたい
・生まれ変わって別の命として生きているかもしれない
・帰る場所=家族や子どもなど、大切な人の精神的な拠りどころになりたい
・帰る場所を現在探し途中
・生きている現世を浄土にしていきたい
「浄土」は宗派によっても捉え方が違い、まして普段の生活で浄土を意識する機会の少ない人にとっては、非常に難しいテーマでした。そんな中で「こんな浄土であったら」という希望が多く出た印象です。
最後に松本ご住職は、浄土について考えることで、存在しているということの根拠を意識化してほしいとおっしゃいました。
帰る場所を自分の心に問いかけて、大切な人の顔を思い浮かべ、また同じように自分が誰かの帰る場所として思い浮かべてもらえるように存在することができたら、しあわせなことです。
今回の坊コンで「浄土」について考えながら、改めて大切な人の顔を思い浮かべ、また大切な人を思い浮かべながら談義している方々の顔を拝見しながら、今を生きている私たちの「縁」を感じることになりました。
浄土について
浄土 命