芳心院の逝去
本日、11月28日は芳心院のご命日です。
本来なら「生い立ち」から順を追って掲載していくところですが、先にその逝去と葬送について述べさせていただきます。
芳心院は宝永5年(1708)11月24日に重篤に陥り、4日後の28日、芝金杉の下屋敷にて亡くなった。世寿78歳であった。
時刻については『因府年表』には子の刻、『控帳』には夜四ッ時と記されているが、文政年間の編纂になる『因府年表』に対し、鳥取藩執政者が江戸からの知らせを、当時において書き留めた『控帳』の記事の方が、正確なものと思われる。
『因府年表』の記事によると、10月20日より病気にて芳心院の食事量が減少し、日増しに衰弱が進んでいく中、たいした病苦もなく亡くなったという。
12月3日、芳心院の遺体は、芝金杉の下屋敷より池上本門寺に移され、葬儀が営まれた(註1)。
芳心院の葬送
『因府録』にはその時の葬列が書き留められている。
それによると、芳心院の棺を載せた輿は30人の担ぎ手により担がれ、その先導を観成院と持玄院という僧侶が勤めている。
この内、観成院とは池上本門寺塔頭で、芳心院の寿塔を管理している永寿院の第七世観成院日遥聖人。持玄院は未詳であるが、やはり池上本門寺の僧であろう。また、葬列の最後には「池上本門寺上人」が輿に乗って随っている。これは恐らく当時の貫首である第23世慈雲院日潤聖人であろう。
池上本門寺にて営まれた葬儀の後、芳心院の遺体は本門寺境内において荼毘に付された。その場所は、宗祖日蓮大聖人が、弘安5年(1282)10月15日未明に荼毘に付された霊地に設けられていた火葬場であろう。瑶林院を始めとして紀州徳川家関係の夫人の多くが池上本門寺で荼毘に付されているが(註2)、
これは宗祖の荼毘所において自らが荼毘に付されることで、宗祖への結縁を願った信仰行為であり、芳心院の荼毘もこの中に位置付けられる。
芳心院の訃報は12月6日に鳥取にもたらされた。7日には諸事穏便と2日間の作事停止の触が出され、8日には鳥取城中ノ丸において家臣の弔問記帳がなされてる。9日に綱清は池上本門寺へ香典として銀20枚を備えるよう指示を出した。その後、14日には紀州からの弔問の使者が来藩し、また将軍からは綱清への奉書が届けられている。
さて、この14日、池上では荼毘に付された芳心院の遺骨が寿塔である万両塚に納入された(註3)。
その際、基礎正面に刻まれた法号「芳心院妙英日春」の下に「大姉尊霊」が、そしてその左右に歿年月日である「宝永五戊子年」「十一月二十八日」が追刻され、塔身背面には墓塔としての開眼導師となった、池上本門寺貫首慈雲院日潤聖人の署名が刻まれた。
また、永寿院の院内には「御尊骨御宝塔御納入」を期して無縫塔が建立された[2枚目の写真]。
建立主は永寿院住職常相院日好聖人と同院隠居観成院日遥聖人である。
特に芳心院葬列の先導も勤めた日遥聖人は、芳心院より篤い帰依を受けた僧で、永寿院の坊領として12石、および9人扶持の扶持方を寄進されている(註4)。
【註】
1、『因府年表』の編者は、芳心院の葬列が数寄屋橋門前を通過していることを指摘して、芳心院が亡くなったのは芝金杉の下屋敷ではなく、八代洲河岸の添屋敷ではないかと推測している。
2、『南紀徳川史』第十六冊 本門寺項には、瑶林院、天真院(紀州2代光貞室)、寛徳院(紀州5代、幕府8代将軍吉宗室)が本門寺で火葬されたと記されている。また、本門寺に葬られている、光貞の息女で米沢藩4代藩主上杉綱憲に嫁した円光院も、改葬の際に火葬であったことが確認されている。〈坂詰秀一編『池上本門寺近世大名家墓所の調査』(池上本門寺、平成13年)〉
3、永寿院蔵 御尊骨御宝塔御納入記念塔銘
4、永寿院蔵 観成院日遥位牌裏書[3枚目の写真]
万両塚について
芳心院 葬送