長源院の逝去と葬送
元禄11年(1698)9月9日暮六ッ半時、芳心院の第一子である鳥取藩2代藩主池田綱清の正室、長源院が世寿50歳にて歿した。
長源院は名を式姫といい、盛岡藩主南部重信の第一女である。
芳心院と同じく、熱心な法華の信者であったらしく、毎年、品川宿の本光寺(旧妙満寺派、現在は単立)へ十人扶持の奉納を寄せていた。
しかし、長源院が歿すると、池田家では長源院の墓所を品川・本光寺とは門流の異なる、池上門流の本寺たる池上本門寺に定めた。
この事情については鳥取藩の藩政日誌である『控帳』の記事により知ることが出来る。
それによると、長源院逝去の時、藩主綱清は国元に帰国してたが、江戸からの知らせにより16日に長源院の逝去を知ると、翌17日には「奥様(長源院)御法事之儀、芳心院様、壱州様(池田仲澄)御伺御意次第仕様」にとの指示を送った。
その後、20日に江戸より「奥様(長源院)御寺之儀、兼池上本門寺御宗旨ニ候へ共、 芳心院様思召寄付、従 若殿様、南部大膳様、同隼人様嘉村弥二郎ヲ以被 仰進候処、芳心院様思召次第ニ被成候様ニと御返答故、弥本門寺ニ相究リ、去ル十三日於本門寺御葬礼御執行之筈」と申し送ってきた。
つまり、長源院の葬儀は国元にいる藩主の指示を待たず、江戸よりの使者が国元に到着する以前の13日に既に執り行われていた。
墓所を設ける菩提寺については、長源院の信仰が池上本門寺と同じ宗旨(日蓮宗)であるという事柄が考慮されたが、「芳心院様思召」により、長源院の信仰した妙満寺派とは異なる門流の本寺である池上本門寺が菩提寺に定められた。
この決定が芳心院の信仰によることは間違いない。
長源院墓所は万両塚の程近くに営まれ、墓所管理は万両塚と同じく塔頭永寿院が担当した。
この墓所には、後に長源院息女の遊姫(慶春院)も葬送され、芳心院の「万両塚」に対して、俗に「千両塚」と呼ばれている。
また、注目すべき事に長源院の墓塔は、万両塚と同じく本門寺山内では紀州徳川家関係者のみに用いられた、石造宝塔の形式をもって造られている。
長源院墓所の成立事情を考慮すると、この塔形決定にも芳心院が関与していることが窺われる。
千両塚
千両塚 長源院