万両塚の造営 万両塚建立の時期 万両塚 芳心院

万両塚建立の時期

万両塚と俗称される芳心院墓所は、生前に自らの逆修供養のため造塔した寿塔であった。

これは、基礎背面に両山第22世妙悟院日玄聖人の撰文になる造塔供養銘(写真1)が残されており、そこに
  
   
   此経常住不滅 則萬壽無彊福履將之顕得
   本地久成之常在掌在耳
   況於逆修七分全得之功乎
   永胎餘慶於後裔必矣
   
  

   このお経は常にここにあって未来永劫の福を与えます。
   常に久遠実成のお釈迦様の掌中にあるのです。
   いわんや「逆修七分全得」の功徳が得られないわけはありません。
   そればかりか子孫までこの功徳を必ず受けることでしょう。


と明確に記されていることから判る。

 万両塚の明確な建立年次は記録が無く未詳であるが、日玄聖人の造塔供養銘の存在から、日玄在世中、つまりは寛文11年(1671)の池上晋山から宝永元年(1704)の遷化までの間で、かつ、銘文中の「相州太守少將松平光仲」との文から池田光仲在世中に造営されたことが分かる。
光仲の歿年は元禄6年(1693)であるため、少なくとも万両塚は寛文11年から元禄6年の間の22年間の内に建立されたことになる。

『因府年表』元禄2年(1689)4月4日条には「御前様芳心院君池上本門寺に御参詣」という記事がある。『因府年表』には、この他に芳心院が池上本門寺に参詣した事を伝える記事はない。
池上本門寺を篤く崇敬した芳心院が、生涯において池上本門寺に一度しか参詣したことがないとは考えがたい。
この記事は恐らく芳心院が特記すべき事柄において池上本門寺に参詣したことを伝えるものではなかろうか。
ひとつの可能性として、万両塚の建立供養をこの時と推測することも出来るように思われる。
 

万両塚の造営 万両塚建立の時期 万両塚 芳心院

万両塚の造形

さて、万両塚の塔形は、宝塔として造られている。
万両塚が寿塔である以上、塔形など姿は生前の芳心院の意向に従って決められたと考えるのが自然である。
池上本門寺において万両塚のような宝塔形は、養珠院、瑶林院など紀州徳川家関係者のみに用いられた塔形である。
万両塚は塔頭永寿院脇に造営され、同院を管理寺院としているが、永寿院は同時に紀州徳川家墓所管理寺院でもあった。

また、池田光仲の弟で、慶安2年(1649)10月17日に歿し池上本門寺に葬られた仲政(本高院瑞圓日清)の墓塔は無縫塔であることを考えたとき、万両塚芳心院の出自した紀州徳川家にて培った法華信仰をもとに造塔されているといえよう。

万両塚造営

万両塚 芳心院

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