祖母養朱院と母瑶林院の薫陶
芳心院は篤信の法華信者であったが、これは芳心院の生まれ育った紀州徳川家における信仰環境に拠るところが大きい。
徳川家康側室で紀州藩祖徳川頼宣、水戸藩祖徳川頼房の生母、つまりは芳心院の祖母である養珠院(お万の方)は、近世初期を代表する日蓮宗の大外護者として著名である。養珠院は特に、身延山二十二世貫首であり、後に池上本門寺第十六世を勤めた心性院日遠聖人に深く帰依していて、特に日遠聖人が池上本門寺に晋山した寛永7年(1630)以降は篤く本門寺を信仰した。養珠院は、家康が歿して以降、頼宣と共にあり、頼宣紀州襲封後は江戸紀州藩邸にて生活をしていた。
養珠院は承応2年(1653)8月21日、芳心院が13歳の時に歿しているが、芳心院が寛永10年(1633)に3歳で江戸に下向してより、正保2年(1645)に15歳で池田光仲に嫁すまで、紀州藩邸において養珠院の薫陶を受けたと考えられる。(写真1 池上本門寺 紀州家墓所)
池上本門寺に伝わる、飯高檀林玄講主を勤めた円照院日明聖人へ宛てられた養珠院書状には、「御ひめ」として芳心院が登場する。また、鳥取芳心寺には芳心院が養珠院より授けられたと伝わる日蓮聖人御真骨が伝存している。
母である瑶林院は、篤信の法華信者として著名な加藤清正の第一女である。加藤家より養珠院のいる紀州家に嫁した瑶林院もまた篤信の法華信者であった。養珠院同様、寛永7年に日遠聖人が池上本門寺に晋董して以降、本門寺にも篤い信仰を寄せ、造立寄進した梵鐘(写真2)や妙見菩薩像にその信仰の足跡を残している。
芳心院の足跡 1
この様な中、芳心院も養珠院、瑶林院が信仰し、そして葬られた紀州徳川家菩提寺である池上本門寺を篤く信仰していく。光仲逝去により落飾した際には、芝の下屋敷に第二十二世妙悟院日玄聖人と思われる。
「池上本門寺の聖人」を招じていることは端的にそれを物語る。
万治2年(1659)の暮、長男新五郎(後の綱清)が疱瘡にて重篤に陥った際、芳心院は瑶林院とともに紺紙金字法華経一部を本門寺に奉納して、その病気平癒を祈願した。
この時、芳心院は30歳であったが、既に養珠院や瑶林院と同様に在家出家を果たしており、「芳心院妙英日春」との法名を授けられていたことを、奉納された紺紙金字法華経の奥書は伝えている。
この写経には金泥奉加者として、実成院日相という僧が関係していた。日相聖人は身延山流祈祷の三沢流開祖として知られる祈祷僧で、芳心院の帰依を得て、身延七面山で新五郎病気平癒の祈祷を行った人物である。新五郎は紺紙金字法華経奉納より間もなく快方に向かい、翌年1月には江戸城に登城出来る程に回復した。このことが、更なる法華信仰の道に芳心院を導いたであろうことは容易に推測できる。
寛文3年(1663)8月には、息子である綱清と仲時(仲澄)の武運長久除災延寿祈念のため、日遠聖人の建立した比企谷妙本寺の宝蔵を修復している。
また、これより2年後の寛文6年1月には宗祖日蓮大聖人の坐像を造立している。この尊像は現在神奈川県茅ヶ崎市の妙行寺に格護されており、像高約29センチの小像ながら、金泥、盛上文などを多用した豪華な像である。
像背面の両山第十九世日豊聖人による開眼墨書には、芳心院が「武運長久子孫繁栄現当二世成就祈」のため造立したことが記されている。
この像の御頭内には、334遍におよぶ芳心院自筆の題目と「芳心院妙英日春」との自筆署名、および「ミ
なくの御大もく」として芳心院付の女中達による題目奉唱回数が記され納められている(写真3)。
芳心院の足跡 2
芳心院の帰依を得て、綱清の病気平癒祈祷に効験をあらわした日相聖人を、中興開山とした大久保法善寺(東京都新宿区、院号は光清院)は、もと武蔵国荏原郡大森(東京都大田区)にあったのを、綱清の外護により貞享年間に現在地へ移転復興されたとされ、現在、新宿区有形文化財に指定されている七面大明神像は、養珠院ゆかりの僧、中正院日護聖人の造像になり、綱清が冨士三沢寺より法善寺に遷したと伝えられている。
また、池田家家譜は元禄6年6月18日に逝去した、仲澄正室凉月院が、法善寺に葬られていることを記し、『因府録』では、藩主ないしは芳心院の参詣が行われていたことが記されている。法善寺への一連の丹精は、芳心院の信仰に基づいていることは疑う余地はない。
芳心院は貞享4年(1687)8月にも、かつて日相聖人が住職を勤めていた冨士三沢寺に納経供養の石塔を建立している。
日相聖人と芳心院がともに在世中の延宝7年(1679)に、法善寺第二世日幸聖人により記された『武州豊嶋郡大久保村法善寺七面大明神縁起』は、日相聖人と芳心院には綱清病気平癒祈祷以前より「資檀ノ縁」があったことを伝えており、また、日相聖人は先に紹介した池上本門寺蔵養珠院書状にも、芳心院と共に「ちえん」として登場する。この様に見ると、日相聖人は養珠院と親交のあった僧であり、早くから芳心院の帰依を受けていたことが分かる。
芳心院は池上本門寺のほか、身延山久遠寺にも信仰の足跡を残している。現存はしないが、貞享4年12月に身延山久遠寺上ノ山に芳心坊という塔頭を建立した。
また、最晩年の宝永4年(1707)には大地震で破損した、身延山の御霊宝宝蔵と拝殿の移築再建を行っている。
芳心院の信仰
芳心院 お万の方