『控帳』宝永6年4月23日記事には、「芳心院様御跡諸事御勘定相済候処ニ残之金銀有之」ため、大塚八兵衛と杉浦加右衛門より藩吟味役へ引き渡されたことが記されている。大塚と杉浦は芳心院付の役人で、金銀の引き渡しは江戸において行われた。
その金額は金670両2分、銀2貫87匁であった。
この金額は、芳心院関係の「諸事御勘定」をすべて決済したところの残金、つまりは芳心院の遺金である。
この「芳心院遺金」のうちより20両が6月6日に光仲菩提所の興禅寺へ納められ、芳心院遺骨納入後の11月25日には正福寺へも50両が納められている。
『鳥取藩史』によると、鳥取藩の藩財政は光仲時代より既に窮乏しており、「御簡略」の名義のもと諸事に経費節減を図っていた。この「御簡略」は予め年限を定めて布達されたが、年限が切れる頃には次の布達が成されるために、恒常的なものであった。
芳心院も、芳心院付役人と思われる関平左衛門の知行を200石に加増するよう度々藩執政に求めたが、「御簡略」の年限開けまで待つように説得されている。
結局、芳心院の頼みは年限開けとなった元禄10年に果たされたが、それまで2年も待たされている。
このような中において、「芳心院遺金」は多額であると言わねばならない。
その参考として綱清室長源院の場合を見てみよう。
前述の通り長源院は元禄11年(1698)9月9日に亡くなった。長源院の一周忌が済んだ元禄12年9月20日の『控帳』は、長源院に借銀、買掛があったことを記録している。
それによると長源院の借銀、買掛は藩表方にて処理することとされたが、藩財政の困難から、借銀分は元禄12年より8ヶ年、買掛分は10ヶ年にわたって返済することが決められた。
長源院の経済状況は芳心院と比べて大きく異なっていた。
このことは、鳥取藩における芳心院の存在性の大きさを如実に示していると言えよう。
芳心院
芳心院 遺金