Mさんの言葉から

私がお話しをさせていただく時、極力避けるようにしていることが2つあります。
1つが「人生」という言葉を使うこと。そしてもう一つが「戦争」をテーマにすることです。
なぜかと言えば、私は東京オリンピック以降の生まれで人生経験が浅く、今まで住んできたどの町でも戦争の余韻すら感じたことがないからです。戦争については読む・聞く・見ることで概略をつかむことはできるかもしれません。しかし戦中戦後を生きた祖父・祖母世代のご苦労という「体験」を「情報」でしか知らない私は、その程度のことで戦争について語ってもまず自分自身への説得力に欠けてしまう気がするんです。
とは言え8月15日は日本の終戦記念日ですし、必要とされればこれから書くようなことをお話しするようにしていましたので、浅薄でおこがましいとは思いますがすすめてみたいと思います。

15年以上前のことですが、それでも戦争について知らん顔をするわけにもいかないと思った私は、個人的に何人かの太平洋戦争体験者の方々にお話しを聞きに行ったことがありました。

そこで戦争についての感想をうかがいますと、皆さん一様に
戦争なんてするもんじゃない」
とおっしゃっていました。そしてお国のためと言って死んでいった人なんて誰もいなかったとか、そういう時代だったから仕方なかった、家族が心配でならなかった、住んでいた町が無くなっていた、大切な人たちが亡くなっていった、人の命を戦争で奪ってはいけない、結局戦争なんて殺し合いです等々。次から次へと出てくるのは「戦争否定」の言葉ばかりで、これが物語ではない体験者の本音なんだなと思いました。

中でも私が一番忘れられないのは、旧満州での戦闘経験があるというMさんの言葉でした。ちなみにMさんは、私同様プロレスのジャイアント馬場さんのファンでした。
Mさんは、私にこうおっしゃいました。

「最近目立って子が親を殺し、親が子を殺すという事件が起こっています。
『これは戦争をしていた私たちのせいなんです』。
戦中や戦後直後はものがなく、それでも家族を食べさせなければならない。
私にも子どもがいましたが、当時の親たちは子どもたちをかまっているひまなんてなかった。子どもたちに愛情を注いでいる場合ではなかった。
やがて親から満足な愛情を受けられずに育った子どもたちが結婚して親となります。しかしこういう親たちは、どうやって子どもたちに愛情を示していけばいいのかすら迷っているはずなんです。ですからそういう事件がたくさん起きても不思議はないんです…」

私たちの社会では毎日たくさんの事件や出来事であふれかえっていますが、戦後何十年たっても「そういう事件」を耳にするたびに責任を感じて心を痛めておいでだったんだろうと察します。体験者の視点から見れば、かの戦争の余波はまだ続いているということです。昨年知人から、Mさんは数年前に鬼籍に入られたと聞きましたが、この思いを抱えたままお亡くなりになったに違いありません。
そうなると、戦争を体験されたご存命の皆さんやすでにお墓の中においでの方々が今も抱える「戦争への不安と後悔」からの解放、すなわち平和を実現していく努力が、今の時代を受け継いだ私たちの役目なのだろうと思わずにはいられなくなります。

『日本国憲法』の前文にある「日本国民は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、」、「日本国民は、恒久の平和を念願し、」、「われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」といった、私たちの決意に示されている通りのことです。

おこがましいようですが、戦争について Mさんの言葉から 平和 戦争

たとえばサッカーから考えてみる

宗教者には反戦ではなく、非戦を掲げる方々がたくさんいます。
非戦とは戦争を認めず、戦争以外の方法で問題解決をしていこうという姿勢を言います。ちなみに反戦は戦争に反対する立場のことです。
しかし、戦うというのは生存競争からくる本能的なものと言う方々もいます。本能なのだから戦争や争いごとは避けられないということですが、平和や安心を求めるのも本能的なことという気がします。

どう考えたらいいのでしょう。そこで私は、サッカー日本代表のジーコ元監督の言葉を思い出します。
元監督は当時テレビのインタビューの中で、「(サッカーの世界最強国を決める)サッカーのワールドカップは、国と国との威信をかけた戦いだ」という言葉を残しています。
スポーツなのに戦い、という言葉に違和感を持つ方がいらっしゃるかもしれません。
しかし4年に1回開催されるワールドカップでは、世界中の人々が本大会への出場をかけて予選から自国チームを応援します。とは言え、たとえ自国が敗戦しても、本大会では連日のように世界のスーパースターたちの妙技をみられる期間として観戦することができます。
人々は会場やテレビの前で選手たちのプレーに興奮しながら、自分自身の生きる勇気が鼓舞されていくのを感じます。そして決勝戦でどの国が優勝しても負けても、最後は選手たちに万雷の拍手が贈られ幕を閉じるんです。

サッカー女子日本代表は今年7月に女子ワールドカップの決勝戦で準優勝となりましたが、自国のみならず世界各国から、優勝したアメリカ代表同様に知性と勇気あふれるプレーが賞賛されたのは記憶に新しいところです。

そう聞くと、国どうしが威信をかける戦いの場に必要なものとは何でしょう。爆弾でしょうか? 武器でなければなりませんか? たとえばサッカーなら、ボール1個あれば充分だと証明してくれているではありませんか。しかも多くの場合サッカーが私たちにもたらすものは感動と勇気と平和です。

またこういう問題も、充分に争いの発端となります。サッカー界では世界共通キャンペーンとして「人種差別の撲滅」を訴え続けています。サッカーに関わるあらゆる人間の尊厳を大事にしていこうと、これに反した行為や発言が確認された場合は個々の選手やチームのみならず、観客にも厳しい罰則が適用されます。

そうなると私には、人類が潜在的に持っている戦いと平和への希求という、相反するものに知恵をしぼって折り合いを付けた1つの表れがスポーツの祭典なのではと思えてきます。
こういう場では国家のイデオロギーや戦力、経済力、国籍、民族、宗教など、どれも直接点数に影響を与えることはありません。
現ローマ教皇(法王)フランシスコ聖下はサッカーファンとしても有名ですが、2014年のサッカーワールドカップへ寄せたビデオレターの中で「スポーツは自己の鍛錬、フェアプレーの精神、他者への尊敬の重要性という3つの教えを学ぶ場であり、より平和で調和ある世界を建設する術(すべ)を示してくれます」と語っています。

平和を取り戻す、維持するための戦争というのが軍隊側の前提なのでしょうが、スポーツが目指す戦争によらない平和の求め方を学ぶことは、その実現への大きなヒントにならないでしょうか。

おこがましいようですが、戦争について Mさんの言葉から 平和 戦争

自分が愛しいと知っている者は

武器についても考えてみましょう。

芥川賞作家で戦中派の故開高健(かいこう・たけし)さんは、従軍ジャーナリストとしてベトナム戦争の様子を日本に伝えていました。開高さんは後にその時の体験から、「そもそも流れ弾(ながれだま)などないんだ」という言葉を遺しています。流れ弾とは目標を外れた銃弾のことで、しばしば民間人や味方など敵以外に命中した時に使われる言葉です。
開高さんはその戦争で敵、味方の双方から発射された銃弾の嵐の中を生き延びた経験から、銃は人を殺すために作られた道具なのだから、どこに向けて撃とうが誰に当たろうが、人を殺せば、銃を作り、使った目的を達成したことになるんだと武器の本質を見抜いたわけです。サッカーボールとはえらい違いです。しかしこれが武器のありようの真実だと思います。

実は私はかつてグアム島で、観光客用に本物のピストルや散弾銃を使って的当てをさせてくれる所があると聞き、現地で射撃を試したことがあるんです。しかし引き金を引いた時の衝撃や弾のスピード感、あるいは的にあいた穴を見て、これは人に向けちゃだめだと思い1ゲームでやめました。と言うのも射撃を始める前、腰にピストルを持ったインストラクターが私たち客の1人1人に言った「ゲームを楽しめ。ただし弾が入っていなくても、他人に銃を向けたら無条件でお前を撃つ。わかったか?」という警告を、実際に自分が撃ってみて納得したからです。

さて、どんな大義名分や主義主張があるにせよ、無差別に人の命を奪う武器を使い、他人の人生を奪うことが、後あと何をもたらすのでしょう。

私たちはお釈迦さまの縁(えん)の教えの通り、様々な人やものと関わり合いながら生きています。ならば人を1人殺すとは、その人の人生のみならず、その人に連なるたくさんの人々との関わりや思いも一緒に奪い去ることであり、殺された1人の無念だけではなく、その背後にはどれだけの人の悲しみや恨みが連なるのかと気づくべきです。まして数十、数千…何万人という人々が犠牲になった時、それでも終戦後にやって来るのは本当に平和なのでしょうか。現に世界でこれが世代をまたいで繰り返されています。

ですからお釈迦さまは、もっとシンプルに「どこをどう探しても、人は自分より愛(いと)しいものを見つけることはできない。同じように他の誰もが、自分を最も愛しいと思うものである。ならば自分が愛しいと知っている者は、他の者も愛しまねばならない」、「自分のために他人を害してはならない」と、自分同様に他者を大事にする、お互いに大事にし合うという生き方を説かれ、そうして「あらゆる命あるものは、みな幸福であれ」と願っているわけです。

最後に平和な社会とは、不安や悲しみよりたくさんの楽しみや喜びにあふれる幸福なものです。
今回のテーマにしたがえば、仏さまや戦争体験者の方々の思いにならい、戦争をすること、戦争に加わること、支援すること、さらに他者を傷つけさげすむことではなく、私は逆の立場を土台に「恒久の平和」を希求していかねばならないと考えます。

ただ目下のところ急な変化は望めないかもしれません。しかし叫ぶ声がいくら小さくても、それで1人でも犠牲が少なくなればいいと思います。こういう事例の積み重ねも、戦争を通さない平和への転換につながるきっかけになるのではないでしょうか。

平和は戦争では得られないことについて

平和 戦争

おこがましいようですが、戦争についてMさんの言葉から