悪を行えばあとで悔いる
今回は仏教が教える善悪について、数ある仏教経典の中でも、ごく初期の頃にまとめられた教えと伝えられる「法句経」というお経から考えてみたいと思います。
ではさっそくその314句目に、
「悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない」
というお釈迦さまの教えがあります。
最後に後悔する行いが悪、後悔しないのが善。このくらいなら善悪や行動の判断が私たちにもつけられそうです。
しかし軽い冗談のつもりが相手を不機嫌にさせてしまったり、落胆させてしまったりなど、普段しゃべる言葉一つとっても自分の意図が必ず善につながるわけではないのが、「私」たちの現実だと思います。
そして私たちの善や悪とは、常に他者に対して行われるという認識を改めることができそうです。
あえてこんなことを言うのは、いたらない私たちだからこそ、時々こういうことを意識しておかないと、その時の言動が実は後悔すべきことだったということに気づかないといった鈍感さが増していくように感じるからです。
この教えにしたがえば、悪を行えば後悔するわけですから、その時そうなるかならないかと考えるようにすることが、悪に走りそうな私の自制に役立つということでしょうか。
七仏通戒偈
日本の仏教には宗派を問わず大事にされているお経の言葉がいくつかあります。
その一つに同じく「法句経」の183句目、古来「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」と呼ばれている教えがあります。
七仏とは、お釈迦さまが仏になる前に6人の仏さまがいらっしゃったそうで、毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)の六仏に、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ=お釈迦さま)を加えた7人の仏さまを言います。
お釈迦さまがお亡くなりになったあと、次にこの世で仏となるのは弥勒(みろく)菩薩とされていますが、これは56億7000万年後のことだそうです。ならば6人の仏さまたちがそれぞれこの世におでましになった間にも、ずいぶん長い期間があったということです。この教えは、私たちには計り知れない時空を超えた、永遠、普遍の真理の教えと言えそうです。
そしてこの七仏に共通する戒め(仏教徒の生き方の方針)の教えが、4句の偈文(げもん)で説かれたのが七仏通戒偈です。
では見ていきましょう。
諸悪莫作(しょあくまくさ)
~諸(もろもろ)の悪をなすこと莫(な)く
衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
~衆(もろもろ)の善を奉行(ぶぎょう)し
自浄其意(じじょうごい)
~自ら其(そ)の意(こころ)を浄(きよ)くする
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)
~是(こ)れ諸仏の教えなり
悪いことはせず、
善いことは進んでさせていただき、
そうして自分の心をきれいにしていくこと。
これが仏さまたちに共通する教えである。
というものです。
仏の真理と言いつつ何やら簡単な教えのようですが、私たちの心を仏さまのようにきれいにしていくには、「悪いことはせず、進んでよいことをしていく」ということが必要と説かれています。
どんなお手本に
そもそも仏教とは仏さまをお手本に、いたらない「私」がどのように生きたらいいのかという教えです。
ですから説かれた教えをただ実践するというより、自分に必要だから実践していくという姿勢が大事だと思います。
もちろん仏さまたちは、悪より善を勧めているわけですが、私たち人間の善悪の判断はけっこう複雑です。
極端な例を挙げれば、仏教では「殺してはならない」と説きますが、その昔、敵討(かたきう)ちは最終手段ながらも立派な行いと言われていました。しかし現代では暴行・傷害・殺人罪に問われる犯罪として厳しく処罰されます。
私たちの善悪の価値観というのは、時代や環境、社会の習わしによっても大きく左右されるものです。しかも、そもそも私たちは善悪の両方の心をもっています。
どうしましょうか。
そこで3句目の「自浄其意~自らその意を浄くする」に注目です。
浄い心は、悪を行いません。悪を行わなければ後悔もしません。後悔のない生き方ができればイキイキと暮らしていけます。こうなれば納得のいく生き方ができ、ひとさまに対してもいいお手本になっていくに違いありません。
できる善をすすんで行い、少しずつその範囲を広げ、やってしまいそうな悪を自制していくという戒めを守る。別の言葉でいえば、みんなが幸せになるようにと説かれた仏さまの教えにそって誠実に生きていくことが、仏さまに近づいていく、いたらない私たち一人一人が成長していく仏教徒の生き方だということになります。
だからと言って何でもそうそう簡単にいけば誰も苦労はしませんし、ましてや「七仏通戒偈」という、何の変哲もない優しい言葉で説かれた教えもとっくに不要となっているはずです。
そこで先人たちは「言うは易(やす)く行うは難(かた)し」と言って、現代に生きる私たちを戒めています。
「人の振り見て我が振り直せ」という言葉もあります。悪い行いも自分がそうならないようにするためのお手本と言えそうですが、注意すべきは他人から見ればその人とは「私」のことだということです。
また「後悔先に立たず」という後悔しない生き方のすすめがありますが、後悔してしまうような大きな失敗のみならず、後悔までは感じない細かな失敗の積み重ねも、やがて大きな後悔につながっていくと心しておくべきということでしょうか。
最後に、先日たまたま通りかかった湯島天神のそばにある天台宗のお寺の掲示板には、こんな言葉が書いてありました。
「悪い子どもなんていません。善い子が大人のまねをしているだけです」
仏教徒にとっての生き方のお手本は仏さまや宗祖方ですが、「私」たちは次世代を担う子どもたちのどんなお手本になっているのでしょうか。
こんなことを考えていくと、善悪の判断と後悔しない生き方がなんとなくわかってくるかもしれません。
*「法句経」の言葉は、岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』より。
仏さまが教える善悪について
善悪 後悔