無銭飲食のニュース

インターネットで見かけたニュースですが、今年の1月25日の夕方にこんな事件がありました。要約すると、

千葉県茂原(もばら)市に住む22歳の男性が、1180円のカレーライスのセットを無銭飲食。そしてカレーを食べ終わると、彼が自ら警察に通報しました。
駆けつけた警察官により現行犯逮捕されましたが、その時の彼の所持金は79円。発表された供述によると1週間何も食べていなかったそうです。

日蓮聖人は『崇峻天皇御書(すしゅんてんのうごしょ)』というお手紙の中でこうおっしゃっています。

「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候けるぞ ~お釈迦さまがこの世にお生まれになった本当の目的は、私たちに〈人としての振る舞いかた〉を教えるためですよ」

題名にある崇峻天皇は飛鳥時代の天皇です。百済から日本に仏教が伝えられた時の天皇である29代欽明(きんめい)天皇の第12皇子として生まれました。その後、当時の最高実力者であった蘇我馬子(そがのうまこ)の推挙により32代天皇となります。
ちなみに日本最古の本格的寺院である飛鳥寺は、先代の用明天皇と馬子の発願により建てられ、聖徳太子ゆかりの四天王寺も同様に崇峻天皇の御世に建てられています。

日本書紀などの伝えによると、天皇と最高実力者との間にどんな確執が生まれたのかは詳しく伝わっていませんが、崇峻天皇と馬子との関係は次第に悪化していったそうです。
そして即位5年後の10月、崇峻天皇は献上されたイノシシの目を刺して、「自分が気に入らない人の首をとってやる」という発言が災いし、翌月天皇は馬子の部下に暗殺されてしまいます。

この御書は、日蓮聖人の檀越(だんのつ・物心ともに日蓮聖人を支えていた信者)であった武士の四条金吾(しじょうきんご)に宛てられたものです。
信心深いが剛直であった金吾が主君と対立してしまいます。同僚からの事実無根の告げ口もあり、四面楚歌(しめんそか)の状態におちいります。武士を捨てようと思い相談の手紙を送った金吾に日蓮聖人は、崇峻天皇の事例を引用して「思ったことをたやすく口に出してはならない」、そして剛直さの方向性を改めさせようと、どんなひどい目にあっても「あなたを深く敬います」と言って合掌を解かなかった常不軽(じょうふきょう)菩薩(法華経・常不軽菩薩品第二十)の姿勢を考え直してみなさいとたしなめたのです。
その後、主君の病を聞いた金吾は医術にたけていることから主君の治療に励み、主君が快方に向かうと信頼を取り戻し、対立前以上の待遇を受けるようになりました。

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ニュースに触れて

この御書の中に出てくるのが先ほどの〈人としての振る舞いかた〉という一文です。
ニュースの無銭飲食の若者がやったことは、所持金79円とはいえ許されることではありません。人としての振る舞いに大きな過ちを犯しています。
しかし、その若者が自分で警察に通報した、1週間も食事にありついていなかったと聞けば、それだけで話を終わらせるもどうかと思うのです。

この若者の暮らしや背景に何があったのかまでは記事になっていませんが、インターネットとは便利なもので、おおよそ思いつくこと以上に記事の読者たちから何百件ものコメントが寄せられていました。それらの中から紹介しますと、

・事件について
「22歳なんてまだ若いのに、頼れる人とか居なかったのか」
「自分で110番したんだから、もう無理だって思ったんだろう」
「1週間ぶりのカレーセットは、めちゃめちゃ旨かっただろうな」
「無銭飲食は良くないが責める気にはなれない。少しせつなくなる」
「22歳の若者が一週間もの間何も食べないで、この寒空の中を過ごしていたのかと思うと、悲しくなります」
「自ら110番ということは良心があったと信じたい」
「店には迷惑を掛けたが、他人を傷つけたりしなかった事が救い。何とか自立できる道を早く見つけて」
「SOSの形は間違ってしまったけど、ここから何かに繋がることを切に願います」

・社会問題として
「ちゃんと社会復帰できるように手助けしてあげてほしい」
「まだ更正する見込みがあるから、行政もなんとか彼に仕事を紹介してほしい」
「可能な仕事ならなんでもします! という人が全員働けるようにして欲しい」
「予備軍は結構潜んでいるんだろうな」

・自身のことにあてはめて
「明日のわが身かもしれん」
「仕事が出来て普通に生活できるということがいかに幸せなことなのかと思った。釈放のあと仕事をするために色々支援とか受けられたらいいが」

中にはこういう意見もありました。
「なぜ働くという選択肢がないのか」
それに対して、
「学校を出ても仕事につけず、家族も友達も助けてくれないんですよ。若者の孤立感、どうにかならないのでしょうか」
「飯食ってなかったらまともな判断力も体力もなくなるだろうし、〈なんでバイトくらいしなかった?〉とかでは済まない問題だと思う」
「あなた方がアルバイト採用の担当者なら、こんな切羽詰まった人を採用しますか? つまりはそういうことです。この方がそういう状況になる前になんとかしなくてはならなかった」

ざっと見ても、9割近くその若者を責めるコメントはありませんでした。まだこの世は捨てたもんじゃないなと感じました。

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人としての振る舞い

人間と書いてじんかんとは読まず、「にんげん」という仏教の読み方が選ばれているのは、人と人との間=つながり・「」を大事に生きるということが、私たちの生き方の土台だからと考えます。

その若者の自助努力や我慢は当然必要でした。これからも自立を目指し必要なことです。
しかし多くのその若者に対する激励や心配の言葉も、「そういう状況になる前になんとかしなくてはならなかった」という後悔や反省の言葉も、「明日のわが身」「若者の孤立感」という現状の言葉が出るのも、、すなわち支え合うという生き方、これこそがお釈迦さまや宗祖が教えたかった「人としての振る舞い」であり、私たち一人一人にそれが十分ではなかったという心理の表れとして出たのではないでしょうか。

「ハローワークでも役所でもまずは駆け込まないと」という意見もありましたが、そう言って背中を押してくれる人がいなかったのかも知れません。

いずれにせよ、
「なぜ働かなかったのかは不明ですし、〈親や友達に頼れば〉というコメントもありますが、親や友達がいても頼れない人もいます。このご時世、常識的になればなるほどお金なんて借りられない。でももし自殺したりすれば、その親兄弟、友達は口をそろえて言うんですよ。〈ひと言相談してくれれば良かったのに〉と。 そんな世の中です」

彼の姿が「明日のわが身」とならない保証はどこにもなく、個人ができる努力にも限界があります。この世の中=社会がそのコメントの通りであるとしても、それは私たちが作り上げたものという視点を持って、自分にも何かできることはないか、身の回りにそういう人が本当にいないのかという感覚と行動が私たち一人一人に求められているように感じます。
他人事ではありません。この社会で生きる「私」の至らなさがそういう若者たちを社会に出してしまっているのですから。

いざという時に知らんぷりされるほど悲しいことはありません。
「困った時はおたがいさま」という先人から受け継いだ言葉を、いま一度考え直す時ではないでしょうか。


※ニュース記事とコメントは「Yahoo!ニュース(2016/01/28)」より。一部編集しました。

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