松も柏も
5月の終わり、お説法に呼んでいただいたお寺にお礼状を書く機会がありました。
時候の挨拶を何にしようかと考えていたら、ふと窓のそとにある桜の木が目に入り、葉桜が色濃くなっているのが見えました。
それなら緑にしようと思い立ち、この時季にふさわしい書き出しを調べてみると、深緑、青葉、万緑、緑樹などいろいろありましたが、今見える桜は全部緑だからということで、万緑の砌(みぎり)…。という言葉から書き始めました。
こんなふうに木々の緑を見るとよく思いだすのが、日蓮聖人の『光日(こうにち)上人御返事』というご遺文の一節です。そこでは、
松栄(さか)えれば柏(かしわ)悦(よろこ)ぶ。芝(芝)か(枯)るれば蘭(らん)な(泣)く。
情(なさけ)なき草木(そうもく)すら友の喜び友の歎(なげ)き一つなり。
~松が育てば、隣の柏の木もよろこんでいるかのようにしげり、芝が枯れれば、蘭も泣いているかのように元気がなくなるものです。
人や動物のように感情に左右されないと言われる草木でも、私たち同様、友としての喜びやなげきがあるのでしょう。
とおっしゃっています。
宗祖は草木の営みの様子からさまざまな命の関わりやつながりという、縁の教えを感じておられたということでしょうか。
たしかに私たちは木々の芽吹きや種の発芽を見ると心が浮き立ったり、生い茂る青葉の中にいると心が癒されたりします。これも植物どうしを越えた人間との命の関わりがあるからだと思います。
この一節から品種の違う草木でも実は心が通い合っているということ、さらに植物も人間もあらゆる命の働きはみな共通しているのだというものの見方、ひいてはこの一節から人間どうしも支え合ってこそというのを学び取ることができます。
友のように
またこういうことも学べます。
私たちはとかくエコや自然環境といった言葉を、守るという視点で論じがちです。しかし草木や人間をはじめ、どの生きものにも共通する命の働きという視点で見れば、もはや守るとは、自分の都合で他の命をどうこうできるものと考えた末の傲慢(ごうまん)な態度なのではないかとさえ感じます。
他者に「オレは偉いんだぞ!」という態度をとれば、その思い上がりからそのうち相手にされなくなったり、ちょっとしたことでも大きく非難されるようになったりするかも知れないというのは、言われなくてもわかりそうなことですが、時々いますね、こういう人。
でも他人の非難ばかりしていられません。人間は霊長類の頂点にたっているという言い方があります。霊長類というのは、動物界でもっとも進化を遂げている生きものという意味なんだそうです。つまりこの言葉がある以上、私たちは自分で自分のことを、地球上で最強の生きものだと表現しているわけです。
ところがそうは言っても、人間がいくら草取りをしても草はどんどん生えてきますし、食べものとなる植物もきれいな空気をもたらしてくれる植物の効果も、あるいは様々に活用される木材にしても自然からいただく恵みに他ならず、この恵みがなければ私たちは生きていくことができません。
それでも人間がレベルの高い存在だなんていうのなら、せめて守ると言うよりは松と柏のように、芝と蘭のように、仲の良い人間どうしのみならず、他の命に対してもわがままを言いすぎないで、友のように思うという視点を時々思い起こすようにしたいものです。
この時季の万緑、緑樹を目にすれば爽やかな気分に浸ることができます。
そのお返しに、みんなが共存できる命の営みを次世代にきちんと受け渡すということに意識を向けていきたいと思います。
写真は、葉桜と野生の蘭
草木からあらゆる命を友と考えることについて
草木 命