浅間神社古墳
多摩川浅間神社が建立されていることから、「浅間神社古墳」と呼ばれています。
多摩川古墳群に連なる古墳ですが、亀甲山古墳、宝莱山古墳に次いで大きな古墳で、存在感があります。
周囲を柵で覆われて中の様子がわからない亀甲山古墳に比べますと、浅間神社古墳は墳丘を自分の足で登っていくことができるのでオススメ古墳です!
墳丘の規模は全長約60メートル、後円部径約32メートル、前方部幅約30メートルと想定されています。
浅間神社古墳は、平成2年(1990)まで、古墳の前方部が東側と考えられていました。東急東横線拡幅工事の際に浅間神社古墳遺跡調査団によって、古墳の前方部が従来考えられていた方向とは反対側、西側にやや曲がった形状で存在していたことがわかりました。
現在は浅間神社社殿の東側から円墳に連なるように墳丘になっているため、混乱しそうです。
浅間神社古墳からの眺め
浅間神社の展望台の見晴しは最高です。
眼下にはすぐ、多摩川河岸が広がります。遮るものが何もないので、多摩川の向こう岸の川崎方面、また左右の川沿いの景色も遠くまで見通すことができます。
展望台から眺めて右手には、東急東横線が橋の上を通ってカタコトと川を渡っていき、眺めているだけで、のんびりとした気分になります。
浅間神社と北条政子
多摩川浅間神社の由来は古く、鎌倉時代にさかのぼります。
文治年間(1185~90)、源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣の際、その身を案じた妻の政子が源頼朝を追う道中、わらじの傷を負ってしまいました。その傷を癒そうと多摩川畔で休み、亀甲山へ登ったところ、遠く富士山が見えたそうです。
政子はこの地から富士吉田の御本尊「浅間神社」に手を合わせ、「正観世音像」をこの丘に建立しました。村人がこの像を「富士浅間大菩薩」と呼んだことが多摩川浅間神社の由来となったと伝わります。
わらじの傷を負いながら、夫の身を案じて遠い地まで追いかけてきた北条政子。
心細い気持ちが、遠く見えた富士山の姿で癒されたのかもしれませんね。
浅間神社古墳から多摩川を眺める
浅間神社古墳 多摩川