語り継ぎ 言ひ継ぎ行かん 富士の高嶺は
先日の2013年4月30日、とうとう富士山が文化遺産登録に勧告されました。「富士山大好き!」という方は多いと思いますが、私もその一人。まだ興奮冷めやらぬ中、少し富士山について語りたいと思います。
富士山といえば、思い出すのは『万葉集』の山部赤人の歌です。
○天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
反歌
○田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
(巻第三・三一七/三一八)
「語り継ぎ、言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は」の部分が特に、現代を生きる私たちの心に響いてくると思います。古来、万葉集が編まれていた時代から、富士山には語り継いでいきたい「日本人の心」が宿っています。
(※写真は品川神社にある品川富士です。本当の富士山ではありません)
富士信仰
○浅間明神
山は、古来人々にとっては神さまと祀ると同時に畏れを感じる場所でもありました。富士山はもともと登る山ではなく、人間たちの入ることのできない神聖な領域と考えられていました。神仙の住む「蓬莱山(ほうらいさん)」と呼ばれていたこともから知ることができます。
今はおだやかな姿を見せている富士山も、記録によりますと800(延暦19)年3月14日から4月の半ばまで1ヶ月にわたって大噴火を繰り返したそうです。日本国を鎮める神の宿る山が大噴火、そして噴火による甚大な被害に、当時の朝廷は神の怒りに触れたと畏れを抱きました。
その後貞観年間にも富士山は噴火し、断続的に噴煙を上げ続けます。火の神を畏れた人々は浅間明神を祀って鎮火を祈りました。
火の神、山の神であった浅間明神を呼び出し、その怒りを鎮めようとしたのです。
○コノハナサクヤヒメ
平安時代中期に入りますと、富士山は今のようにおだやかな、美しい姿として人々に愛され始めます。その優美な姿から、浅間明神ではなく、自然神からコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)が祀られるようになりました。
『古事記』によりますと、火が盛んに燃えている産屋で無事に三児を出産したことから、コノハナサクヤヒメは火の力に強く、同時に火を鎮める力もあるとされました。水徳の神さまをお祀りすることで、富士山の鎮火を祈ったものと考えられています。
浅間神社は全国に約1300社以上は存在するとされ、富士山本宮浅間神社の起源は紀元前27年、第11代垂仁天皇の御代にまでさかのぼります。一方、コノハナサクヤヒメが富士山の祭神として定着したのは江戸後期といわれ、経緯は現在も研究対象となっています。
浅間神社や富士神社の社紋に桜の花が描かれているのは、この美しい女神「コノハナサクヤヒメ」を祀っているからです。
富士講と富士塚
○富士講について
「富士講」という言葉を耳にしたことがあるかもしれません。「講」は現代では「○○の会」と同じように、何か目的を持って集まる人たちのことです。
富士信仰の歴史が古く、現在も見られる「富士塚」の中には、歴史的には「富士講」とは無関係に単なる象徴として造られたものがあります。つまり発生の起源が違うので、富士講とは関係なく富士山を象った塚は「浅間塚」と呼ばれることもあります。
○富士講の成り立ち
室町時代に存命していた「長谷川角行(かくぎょう)」が富士講の結成に重要な意味を持った伝説的人物とされています。富士山の麓にある洞窟(胎内と呼ばれる)穴に入り、富士の神である「仙元大日神」のお告げを賜り、富士山中腹の烏帽子岩(えぼしいわ)の上で断食修行をし、仙元大菩薩にまみえたと伝わります。
普通は読み解くことのできない造字を用いた「御身拔」という秘密の護符をご本尊としたそうです。この荒行者に教えを受けた人々は、まだ富士講とは呼ばれず、世間にも知られていませんでした。
約100年後の現れた「食行身禄(じきぎょうみろく)」によって、富士信仰が世間に知れ渡ったそうですが、この人物は謎が多く、富士登山を45回行い、富士山の中ほどを廻る「中道めぐり」を三周したなどと伝わっています。
身禄の死後、急速に富士講は広がりを見せ、安永4年には町にお触れが出ました。
「近年、富士講と号し、奉納物建立を申し立て(中略)不埒の至りに候」。この背景には、あまり地域の結束が強くなりすぎると、為政者にとっては脅威となるという理由があります。
それにしても、強い口調で禁じていることから、「富士講」がかなりの勢いで江戸に流行していたことがわかります。
○たくさんの富士塚 「自分のお気に入りを探して」
富士塚は、その名の通り富士山を象った塚です。基本的には盛り上がった地や、土を人力で盛って山状にし、富士山から運んだ溶岩(ボク石)で山の表面を覆い、頂上にも置きます(現在は富士山の溶岩は使用できません)。
登山道や「○合目」と記されている場合もあり、オプションで烏帽子岩やお釈迦さまの割れ石や大沢くずれ等を配置します。各所の富士塚には個性が現れますので、たくさんの富士塚を訪れれば訪れるほど、おもしろく感じられると思います。
○駒込富士塚
最後の写真は、「駒込富士神社」の富士塚です。古墳の上に造られた富士塚は、かなりオプションも豊富で、見どころが多い富士塚です。「富士講」によって造られた最古の富士塚は「高田富士」(新宿区水稲荷神社)と伝わりますが、高田富士より古い富士塚なのです。
駒込富士神社には、かつて寛永の時、加賀前田家の拝領によって下屋敷なった場所であったため、加賀の国の異称「加州」という朱文字の入った石碑があります。
胎内を表す洞窟穴には木の柵が設けられており、内部は残念ながら拝見できませんでした。後世、古墳跡に造られたと伝わっているとても興味深い「穴」なのです。
○大田区の富士塚
大田区近辺では、品川神社が有名でしょうか。こちらはかなり精巧に富士山を再現しております。登ってみますと狭い道は積み上げられた岩に覆われ、途中に「○合目」などと記されており、秘密基地に入ったような気分になります。東京湾が目の前に広がり、京浜急行の列車がカタコトと走り、頂上の景色も抜群です。
その他、大田区では「羽田木花講(このはなこう)」の造った小ぶりな羽田富士が羽田神社にあります。木花講の記念碑には富士登山133回、中道33回、雪中登山13回などと刻まれています。
家の近所にも富士塚があるかもしれません。ぜひ、お気に入りの富士塚を探してみてください。
それにしても、無数の富士塚が形成されていることから、どれだけ日本人が富士山を愛していきたか、その強い想いがひしひしと感じられます。
「語り継ぎ 言ひ継ぎ行かん 富士の高嶺を」
その想いは確実に引き継がれています。これからも、富士山に、いつまでも変わらぬ姿でそこにいてほしいと思うのです。
語り継ぎ 言ひ継ぎ行かん 富士の高嶺は
富士山 講