「如是我聞」的生き方のすすめ (妙法蓮華経・序品第一) 仏教的「話の聞き方」 如是我聞 話の聞き方

仏教的「話の聞き方」

『法華経』のみならず多くのお経の冒頭に出てくるのが、「如是我聞~我、かくの如く聞きき」という一句です。
実はこの「如是我聞」は、お釈迦さまではなく後の仏弟子たちの言葉です。
それも数世紀にわたってお釈迦さまの教えを伝え聞き、お経としてまとめてきた人たちの言葉です。

では、その仏弟子たちは、どのようにお釈迦さまの声を聞いてきたのでしょうか。
少しそこのところを探ってみたいと思います。 
仏教的「話の聞き方」です。

「如是我聞」的生き方のすすめ (妙法蓮華経・序品第一) 仏教的「話の聞き方」 如是我聞 話の聞き方

情報は実践・実感によって知識となる

現代は情報化社会ですが、ノーベル物理学賞のアインシュタイン博士は「情報と知識は違う」と言いました。いくら情報を聞きつけても、何もしなければそれは情報のままです。
実践することによって得られた実感こそが、正しく知識を得るということにつながるというわけです。
どうやらこのへんにヒントがあるように思います。

その昔、情報を伝えると言えば、口伝(くでん)と言って、教えは口から耳へ、耳から口へと語り継がれていました。
お釈迦さまの教えを聞いた人たちは、日々修行に励む仏弟子です。
ですからただ聞いたということではなく、日常の、身の周りのあらゆる出来事に照らし合わせながら自分の修行に生かしていったに違いありません。
つまり聞いた教えを実践して、そこで得られた実感とお釈迦さまの教えを照らし合わせていく。
そうやってお釈迦さまのお心を誤らずにいただいて伝えてきたのでしょう。

宗祖日蓮聖人は、法華経に説かれている「法華経を信じ弘める者は、多くの難に遭うであろう」という言葉を聞きながらも法華経を弘めた結果、命に関わる大きな難を四回、他にも数えきれないくらいの難に遭いました。
しかし自らの体験が経文の通りになったことで、身をもって法華経を読み、教えを正しく弘めているのだという実感を持ち、「大いに悦ばし」と『開目抄(かいもくしょう)』の中でつづっています。

「如是我聞」的生き方のすすめ (妙法蓮華経・序品第一) 仏教的「話の聞き方」 如是我聞 話の聞き方

聞いた教えが自分のものとなるとき

さて、宗祖のようにとまではいかない私たちは、どのようにお釈迦さまの教えを聞いていったらよいのでしょうか。

例えば今日、お説法を聞いたあなたは「いい話だったね」とか「ちょっとわかりにくかった」なんていう感想を持つかも知れません。
しかし話をそこで終わりにしないで、一つでも得るものがあれば、それを聞いた自分の心に「なら、自分はどう振る舞うべきか」と問いかけてみて下さい。
そこから自然にわき上がった答えを、自分の都合に合わせず、正直にありのままに聞いて、日常の暮らしで実践していくんです。
最初に聞いた言葉通りのよい実感が得られた時、聞いた教えが自分のものとなっているはずです。
もちろんお説法に限ったことではありません。普段の暮らしで知り得た感動や発見の全てに活用できます。

何よりお釈迦さまは教えがつまったお経を、日蓮聖人はご遺文を通して、常に「あなたはどう生きるのか」と心配しながら問いかけています。
そう考えると、生きることそのものが修行です。
修行と言うと大げさに聞こえるかも知れませんが、私たちが毎日を送る日常こそが修行の場ということです。
ならば仏さまや宗祖の教えを暮らしに生かさない手はありません。

私たちが明るく楽しく生きるために仏教を学び、生かしていく基本的な態度が、教えをまとめた仏弟子の「如是我聞」のひと言に込められているのです。

如是我聞について

如是我聞 話の聞き方

「如是我聞」的生き方のすすめ (妙法蓮華経・序品第一)仏教的「話の聞き方」