釈尊涅槃会~お釈迦さま最後の旅 最後の旅 お釈迦さま 涅槃会

最後の旅

「仏の御年満八十と申せし二月十五日の寅卯(とらう)の時、
 東天竺舎衛国 倶尸那城(とうてんじくしゃえいこく くしなじょう)、
 跋提河の辺(ばつだいがのほとり)にして仏御入滅なる
    (中略)
 皆華・香・衣食(け・こう・えじき)をそなへて最後の供養とあてがひき」
 

お釈迦さまは満80歳の2月15日、夜半から明け方にかけて、
 東インドのクシナガラにあるガンジス川の支流跋提河のほとりでご入滅された。
 そのお姿を目の当たりにした人々は花や香、着物や食べ物をお供えして最後の供養とした」
                         日蓮聖人『祈祷抄』(きとうしょう)


お釈迦さまは、それまで25年もの間そばに仕えた阿難(あなん)尊者を侍者(じしゃ)に、他に数人の弟子を引き連れ、法華経を説いた霊鷲山(りょうじゅせん)を後にし最後の伝道の旅に出ます。
向かった先は、生まれ故郷のカピラヴァストゥです。霊鷲山からは北西の方角にあります。

阿難はこの旅の侍者となるにあたり、お釈迦さまに願い事をします。
それはお釈迦さまに供養されたものを自分に分け与えないようにという弟子としての謙虚な姿勢の表明でした。
旅の先々でお釈迦さまは教えを説き、多くの人々を戒め、生きる勇気と心の安らぎを与えました。
そんな中、一人の信仰者が一対の衣をお釈迦さまにと供養を申し出ました。
しかしお釈迦さまは、そのうちの一つを阿難に与えるように言います。
なぜか阿難はそれを断りませんでした。

ヴェーサリーという町に着きました。そこで托鉢や説法をしましたが、雨期に入ったので近くの村で雨安居(うあんご。雨期の一定期間、一つの場所にとどまること)をしていると、突然お釈迦さまの体に激痛が走ります。
幸い回復したのですが、お釈迦さまは弟子たちに、自分の亡き後は教えとあなた自身をよりどころにしなさいと説きはじめます。
死期を予見したのでしょうか。

さらにお釈迦さまは、阿難と二人でヴェーサリーでの托鉢と食事を終えた後、仏の寿命は望まれれば一劫(天文学的な長い年数)にもなると言いましたが、阿難にはこの言葉の真意が理解できずただ聞いているだけだったため、話しを止めてしまいました。
そして自然の営みに身をゆだねる覚悟をされたのでしょうか、ご自身の寿命を残り三ヶ月と宣言されるに至ります。

旅はすすみ、パーヴァー市に着きました。
鍛冶工チュンダがマンゴー林でお釈迦さま一行に朝食の供養を申し出ました。
チュンダは前夜から出来うる限りのごちそうの準備をし、翌朝一行に供養しました。
ところがお釈迦さまは他の人たちを制止し、たくさんの料理の中からきのこ料理だけを口にして、
残りはすべて土の中に埋めさせたのです。
とは言え供養の食事が終わると、チュンダに対して旅の先々で行ったのと同様に説法をし、生き方を戒め、生きる勇気と心の安らぎを与えました。
しかしほどなくして、お釈迦さまはほとばしり出る鮮血とともに強烈な腹痛に見舞われます。
赤痢のような食中毒と言われています。
その時お釈迦さまは、そばにいた阿難に
「私の生涯において最上の食事となったのは、(覚る直前に)スジャータが供養した乳粥であり、もう一つはこのチュンダの供養である。この二つの供養に無上の感謝を捧げる」
とささやきます。
チュンダのもてなしに対する感謝と配慮です。

それでもお釈迦さまは病弱な体をおして故郷を目指しますが、いよいよその地クシナーラ(クシナガラ)に到着します。

ご遺言 そして涅槃に

お釈迦さまはクシナーラの沙羅双樹(さらそうじゅ)の林で、阿難に体の疲れを告げ寝台を用意させ、頭は北向き、右脇を下にして両足を重ねて横たわります。
つまりお顔を故郷に向けて横になったということです。
その時、沙羅双樹の白い花が時ならず満開になりました。
これはとても素晴らしい供養になりましたが、お釈迦さまは仏に対する最も大事な供養とは、教えに従って実践することと説きます。

またこの場所で阿難の求めに応じて葬儀の方法を示すと、訪ね来た一人の修行者に教えを説いて最後の弟子にしました。
さらに臨終が近いと泣き悲しむ阿難を逆に励ましたのです。

夜中の十二時頃には、阿難にお釈迦さま亡き後は教えと戒律を守るように言い、仏教教団内での決まり事を指し示しました。

ここまでをすますと、お釈迦さまは念を押すように3度にわたって「今のうちに私に聞いておきたいことはないか」と弟子たちに問います。
弟子たちはもはや何も問いません。
その様子を見て、弟子たちが将来修行を完成させ、覚りを得られるであろうという確信を持ちます。そして
「これからは自ら(=教えを聞いたあなた自身)を灯とし、法(=教え)を灯として生きなさい。諸行は無常である。怠らず励みなさい」
と遺すと瞑想に入り、明け方近くにその生涯を終えられました。
満八十歳の年の2月15日のことでした。
仏さまがお亡くなりになることを涅槃(ねはん)と言います。

涅槃を通して

こうして見ていくとお釈迦さまは、この世に生まれ出でた人間として故郷を想い、慈悲を実践しながら、生きるのに色々苦労がついてまわる世の中で生きる勇気と心の安らぎを与え続け、最後の最後まで残される人々に思いを傾け、そして憂いなくこの世に別れを告げられたことがわかります。

日蓮聖人は、どんなこともお釈迦さまのようにはいかない私たちに
「老若、賢愚とは関係なく、死は〈その日〉に必ずやってくるのだから、
 臨終のことを学んでから仏教や他のことを学びなさい」
とおっしゃっています。
〈その日〉は誰もが迎えるわけですから、お釈迦さまのご遺言のように教えをもとに
「普段から怠ることなく」を心掛けながら、
「今日もいい日だったね」と一日を終えられるような毎日を過ごしたいものです。

お寺では毎年2月15日に釈尊涅槃会(しゃくそんねはんえ)という法会を行います。
その時によく掲げられるのがお釈迦さまのご入滅を描いた涅槃図です。

涅槃図をみると、その時の様子として横たわるお釈迦さまを囲んで大勢の菩薩、弟子や人々が嘆き悲しみ、また生き物図鑑さながらにたくさんの鳥獣などが一様に嘆き悲しむ姿が描かれています。

またこの図にはこんな話も伝えられています。
それは巾着のような袋が描かれたり(図の中央左上)、あるいは空からやってきた女性が持った袋として描かれたりしていますが、この中には薬が入っており、お釈迦さまの生後七日目に亡くなった生母の摩耶夫人(まやぶにん)が天から降りてきてお釈迦さまに飲ませようとしたものの、生まれたからには死は必ずやってくるという自然の道理からこれを断ったということです。
子を思う母の愛情が、ここに描かれています。

釈尊涅槃会について

お釈迦さま 涅槃会

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