自然環境問題の考えかた お坊さんが環境問題を説くこと 環境問題 自然

お坊さんが環境問題を説くこと

5月も終盤となり、緑が目に鮮やかな季節です。気温も上がって初夏の装いとなってきました。これからお寺では草取りは大変になりますが、道ばたの草もだんだんと背をのばしています。
 
時々、法話の題材に、私たちに恵みを与えてくれる自然や環境のことを持ち出すと、「お坊さんは仏教の専門家なんだから、環境問題の話しなんて畑違いなんじゃない?」と聞かれることがあります。

むろんこれは私の解説(げせつ=自分が理解した仏さまの教えを説明すること・仏教用語)する力の至らなさが一番の原因なんでしょう。しかしお釈迦さまのもっとも基本的な教えに「縁起(えんぎ=さまざまな事象が直接的間接的を問わず、さまざまにからみ合いながら色々な原因となり、それらを縁[えん=つながり]として何かしらの結果が起こるわけですが、その結果が瞬間ごとに、またいろんなこととからみ合いながらさまざまな原因となって、・・・)」というのがあり、だから世の中のことは常に移り変わっていくのだという「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の教えにつながっています。
縁起を簡単に言えば、この世のあらゆるものごとには、どこまでも終わりの無いつながりがあるということになりますので、専門家でなくてもこの世で生きる者として、そして日蓮聖人も『諸法実相抄(しょほうじっそうしょう)』の中で「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」とおっしゃっているように、わずかなことでも、仏教を通して説明できることは解説すべきというのが仏教徒の基本姿勢となるわけです。
 
と言ってはみたものの、やはり専門の研究者や活動家のようにはいきませんので、仏教の方に角度を変えてお話ししてみたいと思います。

このことを考える時、先に押さえておきたいことがあります。それはこの国で、私たちの精神がどのように築かれていったのかということです。

日本の二大宗教と言えば、神道と仏教ということになります。日本には神道の八百万の神さまたちがいます。ピンとこない方は、神さま=自然の営みと思っていただいてもかまいません。この神さまたちは、国造りからはじまり大自然の営みを守るという大きな役目をもって、私たちに光から食べ物まで自然の恵みをもたらしてくれる一方で、自然のバランスを保つためでしょうか、大地震や大津波、台風といった災害をももたらす存在にもなります。そういう神さまたちに対して私たちは「畏敬の念」を持つことによって共存してきました。例えば食べ物一つとっても、私たちのご先祖はずっと、自然からは必要な分だけをいただいて暮らしに活用するということを守ってきたわけです。
しかし現代の私たちは過度なエネルギーの消費や環境汚染、乱獲を続けて自然の営みを乱しながら、「環境を保護する」とか「自然を守る」などと言って、どこか客観的に環境問題をとらえている節が見られるような気がします。

自然と私たちとの関係を、こう考えてみてはいかがでしょう。
私たち人間は、社会や他人さまの役に立ってほめられたり感謝されたりするようなこともしますが、自分のわがままを通したり心のバランスを保ったりするために、年に1度や2度、またはそれ以上怒り狂って周りの人々を不安にさせたり悲しませたりすることもありますね。となると、私たちの日常の生きざまは、自然の営みとそっくり、いえ、そのものだと思いませんか。人間も自然の中で生かされている自然の一部なわけですから、言ってみれば当たり前のことです。ならば自然の営みを乱す諸問題も、実は客観的に見るものではなく、私たち自身の中にある問題だということになります。

そもそも私たちは・・・

さて、日本の神さまには自然の営みという大きな役目があるのですが、人間がどのように生きるべきかということまでは直接説きません。
そんな中、西暦538年、そういう日本にシルクロードを通って中国、朝鮮半島を経由し、仏さまがやってきました。いわゆる仏教伝来です。仏さまは私たちに向かって「私はこう説く。ならばあなたはどう生きるべきか」と私たちに生き方を問いかけました。古代日本の人々はこの問いかけを受け入れ、神さまを大事にしながら仏さまの教えを実践していこうという神仏習合に落ち着き日本人の精神の基本となったわけです。

その仏さまは、そもそも私たちをどういう存在だと思われているのでしょうか。『法華経 如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六』の経文です。

「以常見我故 而生憍恣心=常に我を見るをもっての故に、しかも憍恣(きょうし)の心を生じ
放逸著五欲 堕於悪道中=放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん」

意訳すると、
いつも仏さまにお会いして導いてもらえる(まっとうな生き方ならすぐわかる、できる)と思うと、おごりたかぶって身勝手にふるまい
(その結果)だらしない生き方をして、自分の欲望が満足しないと怒り、むさぼり、他を思いやる心に欠けた生き方をした挙げ句、自滅していく」

とおっしゃっています。
「憍恣(きょうし)」はおごりたかぶること。「放逸(ほういつ)」は、生き方がだらしないこと。「五欲」というのは、目に見える、声、香、味、触れらるという五つの感覚に執着することで、世俗的な欲望の総称。「悪道」は地獄・餓鬼・畜生の三つで、罪悪に応じた最悪の報いのことです。

経文をそのまま読むとちょっと怖い気にもなりますが、ここで仏さまは「あなたたちは放っておくと、すぐそうなっちゃいますから」という警鐘を鳴らしているわけです。

この経文に説かれた「おごりたかぶる・身勝手・だらしない・不満足を怒り散らす・むさぼる・思いやりをもたない」といったことが、自らの不幸を招くのなら、私たちはどうすればいいか。ひと言で言えば、反対のことをすればいいわけです。一例を挙げれば『同 序品(じょほん)第一』にある「以慈修身=慈をもって身を修めよ」~他の命を慈しみ、自分が生きることによって周りを幸せにできるよう、我が身のことを整えなさいというような教えが説かれています。

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命あるもののつながりは

また仏さまは経文の中で、しばしば「一切衆生(いっさいしゅじょう)」ということばを使われています。衆生は生きとし生けるもの、命あるものという意味で、仏さまのとのご縁は全ての命あるものにつながっているということです。この「全ての命あるものにつながっている」というのは、この世の生命のバランスを意味していると言っても過言ではありません。

例えば「私」が自分のためにわがままを通せば、周りがそのぶん割を食うことになります。周りとは他人さまのことだけでなく、私たちにたくさんの恵みを与えてくれる自然界の命にもあてはまります。全てにつながりがあるという「縁起」の教えのもと、割を食わせて不幸にするより、自分が生きることで周りに幸せがもたらされるよう、あるいは何かの命がが欠けないようにしていくよう、「私」がどのくらい慎ましく生きたらよいのかという点を、自然環境を考える時の土台にすればいいというのが仏さまの方針に違いないと思うわけです。
 
普通そこまで考える? と指摘されそうですが、私たち人間は、ちょっと何かあるとすぐうつむいてしまいがちになりますね。しかし道ばたの草は誰かに踏みつけられても、太陽に向かって上を向いて育とうとします。それを見つけると、自然の生命力は何気ないところで、私たちに生きる勇気を見せてくれていることに気づきます。これも他の命とのつながりと言えると思いますが、いかがでしょう。

いろいろご意見があろうかと思いますが、自然環境問題を自分のこととして考えていただくきっかけになれば幸いです。

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