お寺の庭で縁を考えること
お寺にはよく庭があります。どこもきれいに整えられてこころが和む場所ですが、お寺の庭は一般家庭の庭とは少し違った意味を持っています。
鑑賞するのは同じですが、須弥山(しゅみせん)式という言葉があるように、そもそも庭園の始まりは少なくとも7世紀の推古(すいこ)天皇の時代からその頂上に帝釈天(たいしゃくてん)が住むという須弥山やその山を囲む海を模した池など、仏さまの浄土と自然の営みに憧れて造られたことといいます。
そういう目で見ると、お寺の庭には花鳥風月(かちょうふうげつ)の美しさが表現されていて、その中で生かされている私を想像できる場とも言えます。
庭と言えば、私がかつてお務めをさせていただいたお寺でのことです。
庭の隅のほうに、サルスベリの木がぽつんと1本生えていたんです。しかしいつ頃からか、その木が心なし枯れ始めてきたわけです。そこで出入りの庭師さんにどうしたものか、いっそ抜いてしまう時期なんでしょうかと聞いてみたところ、庭師さんは「もう1本植えれば元気になりますよ」と簡単に言うのです。
私はそういうものかなあと半信半疑だったんですが、住職にそれを伝えると、それならもう1本植えてみようということになり、間もなくつやのある新しいサルスベリがその隣に植えられました。そうしましたら何ヶ月の後、ホントに枯れ始めていた木が、元気を取り戻したんです。
「木もひとりぼっちじゃないほうがいいわけだ」。と、そう思ったわけですが、命を吹き返すのに一役買った新しい木も、ぽつんと植えられていたら同じように元気を無くしていたかも知れません。そうだとすると、命を支え合うというのは、こういうことなのかと思ったわけです。支え合うことで、どちらも元気よく生きることを全うできるというのが、自然の営みかただったわけです。
しかもそういう2本の木の姿を見ていたら、何となくほほえましくなって、私まで元気をもらったように感じたことを思い出しました。
よくよく考えてみれば、私たちもいろいろなことがあって、ちょくちょく落ち込むことがあります。そんな時にうれしい、やさしい一声をかけてくれる人がいると、ちょっと元気が出ますね。
それもこれもつながりと支え合いを大事にする「縁・えん」という仏さまの教えです。
お寺の庭は、そんなことも語りかけてくれるところのようです。
(写真はサルスベリ)
余談:
けっこう前から、住職の吉田さんに同じく「永寿院交遊録」に投稿されている秋山善生さんのように、「私も余計な装飾を省いた短く的確な仏教の話を書きたいものです」と、よく話をしています。
それで今回はいつもより短めの文章にしてみました。 それでも長いなあ。
縁について
縁 お寺の庭