最高の準備
私たちが明るく楽しく暮らすのに必要なものとは、先に答えを言ってしまうと、「安心」だと思います。
例えばフィギュアスケート・ソチ五輪代表の鈴木明子さんは五輪選手に選ばれた時、「最高の舞台のために、最高の準備をしたい」とおっしゃっています。
これは日々目的にあった準備(練習)を積み重ねておくことで、自分自身を信じて平常心で試合に臨み、安心して実力を遺憾なく発揮できるという心構えに他なりません。
ちなみに平常心とは『広辞苑』によれば、「普段通りに平静である心」とあります。心が揺れ動かない、つまり心の穏やかな状態と言えます。
この反対は不安です。多くは先のことを注意深く考えなかったための準備不足が招く心のありようで、心の起伏が激しく、しばしば自分の都合から生まれる不満や怒りをともないます。普段からこういうことばかりでは、相手をしてくれる人がだんだん少なくなりかねません。
ただ、人間誰しも完璧な人はいませんので、いつも平常心というわけにはいきません。かく言う私も楽天的な性格が災いして、いざとなると焦ったり、不安を感じたりした揚げ句、後悔で終わるという結末もしょっちゅうです。
仏さまの「安心」
さて、私はさっきから安心と書いていますが、これはそもそも仏教語です。仏教では安心と書いて「あんじん」と読みます。
そこで私たちが普段使う安心・あんしんと、仏さまの「安心・あんじん」との違いはと言うと、
あんしん=心に一瞬やってくる穏やかさ
あんじん=永続的な穏やかさ
と言えましょう。
どちらも穏やかということから、私たちはホッとできれば何でも安心と言っているわけですが、「安心」についてお釈迦さまの言葉を聞いてみましょう。
現存する中で最も古い経典とされている『スッタニパータ』には、学生ドータカからの「自分の安らぎを学びたいのですが」という質問に対し、お釈迦さまは「賢明に、よく気をつけて、熱心につとめなさい。仏の言葉を聞いて、自己の安らぎを学びなさい」とおっしゃっています。つまり、心の安らぎを実現するためには、日々ささいなことにも心を配りながら努力していくことが必要で、日常を一生懸命頑張って生きていく中に「安心」を見出していきなさいとおっしゃっているようです。
極論すれば、いくら頑張っても「安心」を見出せない行いは、仏さまの教えにかなっていないということになり、それを修正していこうとお釈迦さまは教えを説いておられるわけです。平たく言うと「こんなことしちゃ、ダメだろうな」というのを自分で戒め、「こんなことをしてもらったらうれしいな」ということを、進んでやっていくということでしょうか。
明日を「安心」の中で生きるには
また大乗仏教では、仏さまが私たちに「安心」を実感できるような振る舞いを勧めるのは、法華経の方便品にあるように、「我が所行の仏道を、普(あまね)く衆生をして、また同じくこの道を得せしめんと欲す~私(お釈迦さま)が歩んできた仏道を、私と同じように全ての命あるものに歩ませて、みんなに仏になって欲しい」という大きな願いがあるからだと説かれています。
ではその振る舞いが何かというと、菩薩行(ぽさつぎょう)となります。菩薩行を簡単に説明しましょう。世の中にいろんな人、いろんな生きもの、いろんなものがある中で、そういったものと関わっていかなければ生きていけない「私」はどう生きるべきかという問いに、みんなで心を寄せ合って努力していこう、そうすれば私もみんなも幸福に向かい、その過程で「私」や「あなた」も成長していく、つまり仏に近づくことができるのだという教えです。
加えて言えば、私は人の価値というのは、日々の振る舞いや態度によって磨かれるはずであり、社会でよく言われるような単に能力や地位や財産だけでは測れないと思っています。
さらには、社会とは個人の集合体ですので、個々のこういった教えの実践を通して、ひいては法華経の自我偈にある「我此土安穏~我がこの土(お釈迦さまのご縁をいただいているこの世界)は安穏であって」という一句や、日蓮聖人の「立正安国(りっしょうあんこく)」という「安心」に満ちた世の中になるということでしょう。
まず私たちが仏さまの大きな願いを受けとめるには、信じる心が必要です。その上で菩薩行を実践していく心構えを日蓮聖人は、『上野殿御返事』というご遺文の中で、「そもそも今の時、法華経を信ずる人あり。あるいは火のごとく信ずる人もあり。あるいは水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時は燃え立つばかりを思えども、遠ざかりぬれば捨つる心あり。水のごとくと申すはいつも退(たい)せず信ずるなり」とおっしゃっています。
これは自分自身の信仰のありようを確認するのに最適な一節です。
「話を聴いた時は炎が燃え立つようにソノ気になるものの、しばらくするとすっかり忘れてどうでもよくなる」ではダメですよと、日蓮聖人が私たちを戒めておられています。仏教の話でなくても、いろいろ思い当たるふしがありますね。感動はいつか冷めるものですが、常にその思いを湖の水のような穏やかさで生かしていく、すなわちどんなことがあっても、信じる心があるからだいじょうぶという思いを信心と言うわけです。なかなか難しいことですが、明日を「安心」の中で生きるには大事なことだと思います。
そしてこういう信心を持っていることが、私たちの「安心・あんじん」につながると言えます。
冒頭の鈴木選手のように、オリンピックに向けた準備とは日々の鍛錬を意味します。私たちも明日からの未来を安穏に生きるために、今この一瞬をどんなふうに生きて「安心」を得ていくかを大事にしてまいりましょう。
最後になりましたが、年頭にあたり皆さまのご多幸をお祈り申し上げます。
法話 安心について
安心 あんじん