神さまの「草木の喩(たと)え」
松戸神社の拝殿でお詣りをすませ、ちょっとスッキリした私がひいたおみくじは「小吉」でした。そしてそこに書かれていたお言葉には、なぜ小吉なのかが解き明かされていました。
そして、最後にこう書いてありました。
〈草木が天の恵みの雨露を得て栄える如く、次第に幸福が増して嬉しい事があります〉
ん、これはどこかで聞いたことがあるような言葉だ。
それはさておき、一通り神さまのお言葉をまとめておくと、私の場合こうなるようだ。
①私は余計な苦労をせずに暮らすことができるかもしれない。
②そのためには現状に満足せず、もっと他人(ひと)さまや社会に対して誠実さと謙虚さを養い、常に人生勉強に励んで身につけていくことが必要だ。
③草や木が雨つゆという天(大自然)の恵みをいただいて成長していくのをお手本にしなさい。雨つゆとは人生勉強であり、草木とは私自身のことである。
④そうすれば自己満足ではない幸せや嬉しいことが(春だけに雨後のタケノコのように・・・)増していくはずである。
枯れるも育つも「努力次第」ということか・・・。えぇ、おっしゃるとおりです。
このように松戸の神さまはおみくじを通して、私に悲観することはないが勉強が足らんという戒めと暮らしが幸せに向かうための励ましを与え、小さな吉を大きくしていきなさいとおっしゃったのです。
お釈迦さまの「三草二木(さんそう にもく)の喩え」
せっかくなので、今回のおみくじを仏教に当てはめて考えてみたいと思います。
草木と言えば、法華経の薬草喩品(やくそうゆほん)第五では「三草二木の喩え」が説かれています。
さて、このお経の喩えは、草木にはいろいろな種類と、草の大きさには大・中・小(三草)、木にも大・小(二木)あるが、空から降ってくる雨は、草木に応じてではなくどこにも平等に降り注がれ、大きいものは大きいなりに、小さいものは小さいなりに水という恵みをいただいて命を全うしているというお話しから始まります。
そしてこれら植物の違いや大きさを私たち人間の心や性質にたとえ、私たちには個性があり、理解度や実践力にも個人差があるものの、それでもみんなを仏にしてあげたいという仏さまの智慧と願いは、空から降ってくる雨のようにあらゆる命あるものに分けへだてなく注がれていると説かれます。
ですから私たちはその思いを自分の能力なりに応分にいただいて、仏を目指せばいいのだとおっしゃっているわけです。
つまり応援してくれる人はいるから、いま「私」にできることを一生懸命はげみなさいということです。
また植物は根から水を吸収します。私たち仏教徒にとって、根に当たるのが「信」です。信じることで仏さまの慈悲を土台とした智慧が吸収され、少しずつ身勝手でよこしまな思いを遠ざけられるようになります。そして日常で教えを実践していくと、茎が太くなったり、枝葉をのばしていったりするように私たち自身が成長していきます。そうなると次第に煩わしい心が落ち着き、仏さまの心が自分の心の中にもあることを実感できるようになるから、それをさらに開発していきなさいと示されています。
というのが、この喩えで示された仏さまの慈悲の授け方と受け取る姿勢ですが、私たちの暮らしに当てはめてみましょう。
先に受け取る姿勢から。
まず人には個性や個人差があることを受け入れることです。そしてたとえ自分の能力が低いと感じたからと言って、他者と比較して落ち込んだりすることはないんです。それで人生終了とはなりません。
だんだんに心の器を広げて、道半ばで自己満足におちいることなく、何より目標に向かって続けるのが大事ということです。
最初は自分自身を信じる度合いが浅くても、努力を続けることでいろいろな気づきと結果が現れてきます。それを素直に受けとめ、自分を励ましながら、さらに反省と努力を重ねていくことです。
たとえ当初の目的と違っても、やがて大きな花が咲くころには、あらゆる努力が無駄ではなかったことがわかるはずです。ここを目指しましょう。私の人生の主人公はどこまでも「私」です。
そして仏さまの慈悲の授け方は、人との関わりかたに活用できます。仏さまのお心はあらゆる人々に平等に注がれていますが、私たちはついつい自分の大切な人にだけ親切にしようとすることがあります。
もとより私たちは他人さまと関わっていかなければ生きていけません。孤立を選んでは、生きていくこと自体成り立ちません。他人から一度も親切にされたことがないという人もいないでしょう。
人との関わりの中で自分が知らなかった、気づかなかった大事なことを知り、大なり小なり他人さまのお世話になって、できるお世話をして暮らしを立て合っているわけです。
そこを考えないと自らの振る舞いを省みることもできなくなります。
また十人十色、千差万別というように、世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな考えかたや感じ方があります。そのためやみくもに自分が思ういい人に徹しても、思い通りの結果になるとは限りません。かえって失敗を招きがちになることもあるでしょう。
しかし「どんなこともお互いさま」に通じるであろう、他人さまの役に立つ親切の表し方というのは、その時々に「私ができる親切」を分けへだてなく実践していくことからしか学べないのも事実です。
やはり続けることが自己満足を超えた「他人さまの役に立つ自分」へと成長させてくれるのは間違いありません。しかもこういう意志は、贅沢な暮らしや物質的な満足とは関係ないことです。
私ができる親切の実践を通して学ぶ。これが「人生勉強」なのだと思います。
神仏の幸福観
最後に他人さまの役に立つことは、社会の役に立つことにつながっていきます。
お釈迦さまは「縁~無限のつながり」という教えを説き、インドの政治指導者マハトマ・ガンディーは、「近隣のために尽くす人は、同時に人類のために尽くしている」という言葉を遺しています。社会が個人の集合体である以上、私たち1人1人の基本精神として誰に対してでもできる親切を実践しようと心がけるのは仏さまの方針とも言えるでしょう。そうして幸せが広がっていくと、みんなが幸せならその中にいる私も幸せという実感につながっていくはずです。
私がひいたおみくじの「次第に幸福が増して嬉しい事があります」というのは、こういうことを指しているのではないかと思います。
こうして私自身への激励も込めて神社のおみくじの解説をしてきましたが、仏教に照らし合わせて考えてみた結果、どちらも私たちが幸せに向かう生き方を示して下さっていることがわかります。
まさに「神さま仏さま」という感じですね。(了)
【おみくじの豆知識2】
昨今、吉凶の割合をお寺や神社で決めているところが増えつつあるように聞きますが、基本的な百番みくじでは、凶は100本中31本あることになっています。
となると約7割は何らかの吉と書いてあるわけですから、わざわざそうでないものを引くというのは、「当たり」ということかも知れませんね。
もちろん神仏が反省すべき点を包み隠さず教えてくださっているという意味ですよ。人間ではなかなか言いにくいことばかりでしょうから。
最後におみくじの引き方をご紹介しておきます。
それはご自分の願いごとを心の中で決めてから、おみくじを引くということです。吉と出ればそのことについて神仏から励まされている、凶と出たら戒められているということです。
この世に完璧な人間など1人もいません。何が出てもおごらず、卑屈にもならず自分自身のこれまでの振る舞いを素直に謙虚に見直すようにしましょう。
おみくじというのは単なる占いではなく、神仏からの「励ましと戒め」をいただくものです。
写真の解説:
これを書き上げた3月の中頃、池上本門寺の大堂でおみくじを引いてみました。
未来を安泰に過ごせますようにと願ってみた結果、
「第四 吉」。神社の小吉からランクアップしました!
しかしお言葉を読むと、未来どころか
〈いまだむく(報)いられざるは、おの(己)が努力足らざるなり〉
お釈迦さまと日蓮聖人が話のネタを与えてくれたのだろうか。
どこで引いても言われることは同じ・・・。
神社のおみくじを仏教で解説
おみくじ 草木