誤解しない五戒 仏教の戒律 戒 戒律

仏教の戒律

私たちの生命や日常的な暮らしは、法律や条令などのきまりごとによって守られています。
この世で暮らしているのが自分だけではない以上、自由な生き方の中にも一定の規則や道徳観は必要で、規則違反に対する罰則が違反の抑止につながっています。

仏教徒として見た場合、一定の規則や道徳観とは、何より仏さまのお心と教えに反しないような生き方を送ることとなります。そのためにお釈迦さまは、まず仏教徒の日常の暮らしかた「(かい)」を示されています。

よく律と言いますが、厳密に言えばと律とは別物です。
先に言っておきますと、「律」というのはサンガという出家者(僧侶)が集団で修行する場で守るべき規則を言い、独りよがりな修行や他者の仏道修行の妨げとなることを防ぐため、違反内容にしたがって最も重い罰なら破門といった罰則が設けられています。
しかしこれは出家修行者のためのものであり、在家(ざいけ=出家していない信仰者)の方々に仏教の律というものはありません。

一方「」とは出家、在家問わず与えられるものですが罰則はありません。あくまで自発的に決心して守っていこうとするもので、厳格な規則ではなく、仏教徒が生きるための欲望に節度を持たせる「努力目標」と言えるものです。
ちなみに名(かいみょう)とは、仏前で僧侶がを授け、仏教徒としてを守って生きることを決心した人に与えられる仏教徒の証であり名前です。ですから名はお葬式に際していただくものではなく、この世で活躍できるうちにいただくのが本来のあり方です。

の種類にはいろいろあり、在家の方には五と三つ加えて八斎(はっさいかい)、出家者にはもっと増えて250(男性の僧侶)・300(女性の僧侶)、また大乗仏教では華厳経(けごんきょう)に説かれる十善(じゅうぜんかい)などがあります。

今回はその中でも最も基本的な五についてご一緒に学んでいきましょう。

五戒を考える前に

これは五つあるので五と言いますが、この五を〈誤解〉が無いように慎重に見ていきたいと思います。

最初に五を理解するための共通キーワードを「少欲知足(しょうよくちそく)~少欲にして、足ることを知る」という法華経・普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第二十八の教えにしたいと思います。
これはどこまでも尽きない私たちの欲を抑えめにして、足りる分で満足していこう、足りているんだから満足できるはずと自分をコントロールしていきなさいという教えです。

誤解しない五戒 仏教の戒律 戒 戒律

五戒について①(不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒)

ではそれぞれ詳しく考えてみましょう。

1.不殺生(ふせっしょう)
これは殺すなということです。
しかし人命に対してのみ言っているわけではありません。
私たちは食べ物を得るために、生きものの命を奪わなければ生きていくことができません。食べ物が身体を作っていくとは、例えばそれが魚なら、その魚は自分の命と引き替えにあなたの命を維持し支えているということになります。そこで食材や食料を手に入れる時、どういうものを、どんなふうに、どのくらいいただけばいいのかと考えれば、無駄に命を奪わなくて済むことにつながりますし、合掌して(命を)「いただきます」という食前の言葉がそれを実感させてくれるでしょう。
また最近流行の家庭菜園や米作りを体験すると、収穫したものがいとおしくて作物の命を無駄にするなんて信じられないなんていうこともあります。
このは他にも生きものの命だけではなく、人の存在感や立場といったことにも言えますね。
ひと言でまとめれば、先人が遺してくれた格言のように、どんなことでも「腹八分目」にしておきなさいということです。

2.不偸盗(ふちゅうとう)
これは盗むなということです。
日本は物質的にとても豊かな国です。しかしモノにあふれた暮らしをしていても、ついついあれもこれもと欲を出してしまうのが私たちの常です。その欲が常軌を逸すると盗むという行為に走るのでしょう。他人が努力をして得たものを、勝手に盗むことがいけないことだというのは当たり前の事です。自分が盗まれれば簡単にわかることです。
一方で盗むということが悪いことばかりとも言い切れません。
よくある言葉に「技を盗む」というのがあります。自分がその技術を盗むことで、全体のレベルアップにつながる場合があります。そんな時は礼節をもって相手の方の判断を仰ぎながらしっかり盗めばいいと思います。

また同様に仏さまの教えも、見方によっては盗んでいいものと言えます。なぜならそれは、どんな教えも「私」のものではないからです。仏さまはあらゆる命あるものが、ご自身と同じように仏になれるようにと教えを説かれたのであり、私たちはそれを受け継いだ宗祖や先師・先人、諸先輩から教えを盗んで自分のものにしていけばいいわけです。そしてその教えを1人でも多くの方に弘めていただくことが、社会の安穏とレベルアップにつながるはずです。ですからこういうことに遠慮はいらないのであって、言葉のみならず身をもって理解している人からしっかり盗んで自分のものにし、実践に励んでいけばいいと思うのです。

日蓮聖人も「力あらば一文一句たりとも語らせ給うべし~大切な教えを弘める意欲があるなら、わずかなことでも話してあげて下さい」とおっしゃっています
みんなのため、社会のためとなれば、聖人にならい器量が試されていると思って、遠慮無く盗ませてあげるのが大事なことです。逆に盗む機会を盗んではいけません。
盗んで悪いものといいものを区別して、いいものにも盗み方があることをわきまえながら役立てていきましょう。

3.不邪淫(ふじゃいん)
これは男女の交わりに節度を持てということです。
しかしこれを厳格に突き詰めていきますと、近いうちに人類は滅びかねません。だからと言って欲の向くままに、あるいは一時の感情で行動していては、自分や相手のみならず家族や友人たちにも悲しい思いをさせることになるわけですから、大乗仏教ではしっかりと節度を持つよう努力しなさいと言っているわけです。
ここでも「私」の振る舞いでみんなが笑顔になるか、泣きを見るかという点で、湧き上がる欲望をどうコントロールできるかが試されています。

ちなみに日本仏教では、明治天皇の勅令により現在も僧侶は妻帯できるわけですが、他国の仏教では僧侶用に不邪淫の邪を取って「不淫」というがあります。
それからこんな話もあります。明治初期、お寺では(時代を先取りしたわけではなく)いわゆる事実婚というのが多かったそうです。奥さんをもらっても入籍はせず、お寺の子どもはほとんど私生児として育ったそうです。僧侶の社会にとっては大変革と言ってもいいような出来事だったので、当時の僧呂方にとって結婚はかなり抵抗があり、役所が婚姻の届け出を勧めてもなかなか応じなかったと聞いたことがあります。

と、ここまで書いたところで話がまた長くなりそうな気がしてきました。これ以上皆さんの時間を「盗む」わけにもいきませんので、また次回に続きをお話ししたいと思います。(つづく)

写真は「祇園精舎」跡、収穫したてのミニトマト

仏教徒の戒律について

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