誤解しない五戒 その2 五戒について②(不妄語戒・不飲酒戒) 戒 振る舞い

五戒について②(不妄語戒・不飲酒戒)

前回の続きです。

4.不妄語(ふもうご)
これは嘘をつくなということです。
嘘は、ついたことがわかれば信用を無くしますし、つかれれば残念なくやしい気持になります。おおむね嘘をついた方がいい思いをするためにするわけですから、両者ともども信頼という人間関係の大事から遠ざかることになります。
そんなことは分かっていても、生まれて1度も嘘をついたことはないなんていう人はいないというのが現実です。
そこでよく「嘘も方便」と言う言葉があります。方便というのは仏教用語で方法や手段という意味です。
これは人間関係を円滑にするために、時として嘘も一つの方法になるということですが、これを正当な理由として使う場合は、問題がおさまった後、つかれた方が納得して「わかった」って言ってもらえるかどうかでしょうね。


5.不飲酒(ふおんじゅ)
これは酒を飲むなということです。
お酒の歴史から見ても、の中では比較的あとから付け加えられたもののようです。

このが他の4つと少し違うのは、自分が生き抜くためという問題に直結していない点です。というのも、お酒好きな方からは支持されそうにありませんが、飲まなくても生きていけるということです。しかし暮らしの潤滑剤としての役割は確かにあるわけで、飲酒そのものを完全に禁じてはストレスのはけ口を一つ失うことになりかねません。

ならば、なぜこれがの一つなのかと言えば、お酒を飲まない人には関係ないということではなく、心を不安定にさせることや正常な判断を遠ざけるようなことは慎みなさいということだからです。
その代表例としてお酒があげられていると考えれば、(医療用もありますが)麻薬のたぐい、場所や状況を考えない喫煙などもこれに当てはまります。

お酒で話を進めれば、ほろ酔いくらいならお酒の味がわかるようにまだ正常な判断を下せますが、普段は真面目な人なのに飲み過ぎたばかりに…、なんていう失敗や事件は大なり小なりそこら中で起こっています。
他にもお酒を飲んで気分が良くなっているのは飲んでいる人なのであって、飲んでいない人は楽しい雰囲気になっている間は共感できるとか。
あるいは飲んでいなくても、自分に酔いしれている人も時々他人を不快にさせることがあります。

こうしてみていくと、このはお酒を通して他人から見て許される範囲を超えたり、かけなくてもいい迷惑をかけたりしてしまわないように慎みなさいと説かれているのだろうと思われます。

誤解しない五戒 その2 五戒について②(不妄語戒・不飲酒戒) 戒 振る舞い

法華経の戒~此経難持から

と、長々と五についてお話ししてきましたが、仏さまの一番大事な教えと言われる法華経では少しのとらえ方が違ってきます。

お経の中でにあたるものはいろいろあるものの、法華経の見宝塔品(けんほうとうほん)第十一の古来より此経難持(しきょうなんじ)と呼ばれる「宝塔偈(ほうとうげ)」に、「是名持 行頭陀者~これを持(たも)ち、頭陀(ずだ)を行ずる者と名づく」という言葉があります。
頭陀とは、衣食住に代表される日常的な欲望より仏さまの教えの実践を優先していくことです。この経文で仏さまは法華経を信じることは、すでにを持っていることであり、仏道を歩んでいることなのだと説かれているわけです。
私たちはしばしば、分かっていてもついつい身勝手な振る舞いをしがちです。しかし信仰がそこに歯止めをかけてくれるものと考えれば合点のいく話になります。

また日蓮聖人は、「題目(=南無妙法蓮華経)受持(じゅじ)」をすすめられました。
これは法華経を信じてお題目を唱えることで、自然に仏さまの智慧が少しずつ譲り与えられるという教えです。信じて唱えていくことで、仏さまと心が通じる。心が通じ合うと、窓を開ければ新鮮な空気が部屋の中に入ってくるように、仏さまの智慧が私の心の中に流れ込む。そしてその智慧が暮らしの善悪を考え行動に生かしていく(を守る)ことにつながるという教えです。

こう書くと、それなら五なんかいらないじゃないかと言われそうですが、それこそ「誤解」です。ちょっと思い返せば反省なんていくらでも出てくるのが人間です。
そういう私本人が言っているわけですから間違いありません。

要は「自分(たち)だけいい思いをしちゃいけねぇぞ」というのが、五が示す教えの土台だと思いますが、人は失敗からしか学べませんし、昨日より今日しか賢くなれません。
そういう「私」がちょっと自分の立ち振る舞いを具体的に見直すのに、まだまだ五は必要な教えと言えそうです。

五戒と法華経の戒について

戒 振る舞い

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