ご質問から
以前、こんなご質問をいただいたことがあります。
「記事の中で『お釈迦さま』と書いてあったり『仏さま』と書いてあったりしますが、どちらも同じじゃないんですか?」
よくお気づきになられました。
一口に仏さまと言っても、大乗仏教にはいろいろな仏さまがいらっしゃるわけです。私たちが住んでいるこの世、娑婆世界の釈迦牟尼世尊、略して釈尊、いわゆるお釈迦さま。他にも西方極楽浄土の阿弥陀仏、東方浄瑠璃世界の薬師如来…などなど。
お答えしますと、基本的にお経の中のお釈迦さまのお言葉を引用する場合は「お釈迦さま」、どんな仏さまでも等しくお持ちの智慧については「仏さま」と使い分けているということです。
ちなみにお経には「成等正覚(じょうとうしょうがく)~等正覚を成就する」という言葉が出てきます。これは一切の真理を等しく正しく悟ったという意味で、仏さまのお悟りを言い表します。
等正覚を成就すると仏さまになるわけですから、そういう意味ではあらゆる仏さまのお悟りはみな同じ性質のものと言えます。ですから私たちも等正覚を成就すれば成仏でき、その悟りとはインドで悟ったお釈迦さまと同じものとなります。
如来とは
ここでお気づきの方も多いことと思いますが、
さっき釈迦牟尼世尊、阿弥陀仏、薬師如来という仏さまのお名前をあげました。
しかしお釈迦さまは釈迦牟尼仏(陀)、あるいは釈迦如来という呼び名もあり、阿弥陀さまやお薬師さまなども同様です。
悟った人をブッダ=仏陀(ぶつだ)・仏と言いますが、有史以来この世で真理をお悟りになって教えを弘めたのはお釈迦さまだけですので、この部分が強調されているのでしょうか、ブッダと言えば慣例的にお釈迦さまのことを指すようになっています。
これら如来、仏(陀)、世尊というのは全部仏さま専用の呼び名ですが、実は全部で十種類あってこれを「如来の十号」と言います。如来という修行完成者には十種類の称号があるということです。
如来の十号と言うからには、まずは如来という言葉から見ていきたいと思います。
如来の「如」は真如(しんにょ)のことです。
私たちはいろいろな原因からさまざまな善い悪い結果が生まれ、そこから悩んだり苦しんだり喜んだりして、日々こころの成長や後退を繰り返しながら、そして自然の摂理のままに変化しながら暮らしているわけです。しかし真如というのは、仏が悟った万物に平等に共通する永久不変の真理そのものを言います。
「ちょっと、何を言っているのかわかりませんけど…」と言われるのは分かっています。
言い訳になりますが、たとえば素人がいくら家のキッチンで練習しても、一本立ちしている寿司職人の技にはかなわない「プロの領域」というものがあるように、真如というのは、仮に言葉で表現できたとしても成仏しないと実感できない「仏の領域」の話なんです。
これを法華経の方便品(ほうべんぽん)第二では「諸法の実相」や「唯仏与仏~ただ仏と仏との間でのみ(理解し合える)」という言い方で表現されています。
もう一つ困ったことがあります。如来はインドの古代語を漢字に訳したものですが、そのまま漢訳すると如来だけでなく如去(にょこ)とも訳すことができるんです。
先に如去の「去」から説明しますと、
仏教には輪廻(りんね)と言って、煩悩を遠ざけられない私たちは、何度生まれ変わってもたくさんの煩悩や苦を克服していかなければならない世界に生まれ出ると説かれます。
いっぽう解脱(げだつ)と言って、修行を完成し仏の悟りを得ると、輪廻して生まれてくる世界から脱出すると説かれます。つまり私たちが住む世界から真理そのものの世界に向かって「去って」行ったので「如去」となるんです。
そして「来」です。仏道修行者が修行を完成させれば、永遠に輪廻の苦から脱出した喜びに浸れるわけですが、
しかしいまだ悟りには程遠い私たちを放っておけないからと、必ず慈悲の力で如去の向きから反転し、現実のこの世に戻って「来て」救い導いて下さるから「如来」というわけです。
法華経の譬喩品(ひゆほん)第三でお釈迦さまが「其中衆生 悉是吾子~その中(この世)のあらゆる命は ことごとく我が子である」「而今此処 多諸患難~しかしこの世には いろいろな憂いが多い」「唯我一人 能為救護~仏は私一人だが それでも皆を救い護るのだ」と力強く宣言されているのはそういうことです。
仏さまは自分だけいい思いをしないんです。
そして仏さまの救いが必要な私たちにとって、如去と如来はどちらがありがたい姿かと言えば、一目瞭然、「如来」ですね。私たちのそういう気持ちをくみ取って、お経の中で仏さまはしばしばご自身を如来と呼び、私たちも願いを込めて○○如来という呼び方をするわけです。
また如去の姿は「上求菩提(じょうぐぼだい・悟りを求めて自己を磨く)」、如来の姿は「下化衆生(げけしゅじょう・ひとさまの幸せのために尽くす)」という菩薩行(ぼさつぎょう・仏をめざす尊い生き方)とも重なります。お釈迦さまは前世までにこの修行を完成させて、この世で成仏したのだと伝えられています。
如来の十号
では如来の十号を見ていきましょう。如来に以下の10種類の呼び名を足すと全部で11種類になりますが、古来諸説ある中から「如来が持つ10種類の称号」という説にしたがって進めていきます。
1 応供(おうぐ)…あらゆる人間や天上の神々からの供養を受けるべき存在
2 正遍知(しょうへんち)…さまざまな事象を正しくまんべんなく見渡して、ありのままに知り、どう導いたらよいかを理解している存在
3 明行足(みょうぎょうそく)…過去・現在・未来にわたって、からだ・ことば・こころの善い行いを満足させている存在
4 善逝(ぜんぜい)…あらゆる煩悩を克服し、輪廻から脱出した存在
5 世間解(せけんげ)…人間が起こす世間のできごとの根本的な原因と結果を理解している存在
6 無上士(むじょうじ)…この上ない、もっとも尊い存在
7 調御丈夫(ちょうごじょうぶ)…教えを説くことで、煩悩に振り回される人々の心を調節制御して悟りに向わせる存在
8 天人師(てんにんし)…天上の神々や人間に教えを説く教師となる存在
9 仏(ぶつ)…永久不変の真理を悟った存在。仏陀の仏(ぶつ)、仏さま。
10 世尊(せそん)…自分の修行を完成させて如来となり、それまでの努力と成果を人々に振り分けることで生きる勇気と心の安らぎを与えていく世の中で最も尊い存在
こうして如来の十号を見ていくと、慈悲を土台にしたこの十種類を兼ね備えた人物像こそ、誰にとってもかけがえのない人の特長になると思いませんか。わかりやすいのは10番の「世尊」でしょうか。
こういう仏の称号からも、仏さまは信仰の対象であるとともに私たちのお手本(=ご本尊)だということがわかります。
さて、私たちがそんな人物を目指すにはどうしたらよいでしょう。
仏教の目的は成仏です。仏さまが教えを説くのは、あらゆる命あるものがご自身と同じ仏になってほしいと願っているからです。
法華経の方便品には、十大弟子の一人で智慧第一と称され、法華経の教えを聞いてお釈迦さまのこの願いを最初に理解した舎利弗(しゃりほつ)尊者が、仏弟子たちを「仏口生所子~仏の口より生まれた子」と言い表しています。
それは教えを聞いた自分の心に進むべき道を問いかけ、答えのままの実践を通して悟りを目指す生き方を追求していく者という意味です。
こうやって常に私の心を仏さまのお心に向け、教えを実践していくことが、私たちが「仏の領域」に近づく手段と言えるのではないでしょうか。
写真は上から、お釈迦さま、寿司(コハダ)、舎利弗尊者の墓所(出身地に建てられたインド・ナーランダ大学跡内)
如来の十号について
如来 仏