専門用語を読み解く~空について 空を学ぶわけ 空 因縁

空を学ぶわけ

突然ですが、「色即是(しきそくぜくう)即是色(くうそくぜしき)」と言えば『般若心経(はんにゃしんぎょう)』で「(くう)」と「色(しき)」との関係について説かれた有名な経文です。
先に「色」を説明しておきますと、これは目に見える物質的な現象のことを言います。目で見えるものには色〈いろ〉がついていますから、こう呼ばれるそうです。

」はこれから説明していきますが、仏教の基本的な教えで法華経もを無視していません。
例えば法華経の化城喩品(けじょうゆほん)第七では、お釈迦さまが、あらゆる仏さまがご一代の中で法華経を説かれる条件について、

・仏さまがお亡くなりになる時期が近づき、
・それまで説かれた教えによって弟子たちの心がきれいになり、
・信じて修行する心がかたまり、
・「法(くうぼう)を了達(りょうだつ)し~の教えを完全に理解し」、
・こころ穏やかに保つことができたら

と、仏弟子たちの機が熟したところで仏の悟りにまっすぐ向かわせようと法華経を説くのだとおっしゃっています。

ということは法華経を聞く仏弟子たちは、みんなを理解していたということになります。
は有名な教えですからご存じの方も多いとは思いますが、とは一体何なのか、いま一度確認しておきたいと思います。

因縁について

」とは、あらゆるものは因縁(いんねん)によって生まれてくるもので、固定的な、独立した実態などないということですが、よくわかりませんね。

まず因縁ですが、因とは直接的な原因、縁とは間接的な原因と言えます。

例えば、
①約束の時間に待ち合わせしたのに、寝坊をしてしまった。
②急げば何とか間に合いそうだ。
③一生懸命走った。
④しかしあわてて途中で転んでひざをついたら、
すりむいてしまった。

こんな場合、ひざをすりむいた理由は何でしょうか?
答えは、④の中の「転んでひざをついたから」です。これを直接的な原因、因と言います。一方、
①のように待ち合わせをしたから、寝坊をしたから、
②のような推測しようが、
③のように走ったから、
しかし④のようにあわてたからと言って、あるいは転び方次第ではひざをすりむくとは限りませんから、これらはすべて間接的な原因、縁と言います。

因縁とは、あらゆる現象はこれら因と縁と私たちとが複雑にからみ合うことで起きているということを示す言葉です。

「オレに何を因縁つけてんだ?」と、おっかない人からすごまれれば恐ろしさを感じますが、考えようによっては、わざわざ細かく理由を聞いてくれているのかもしれません。もちろんその人が「因縁」という仏教用語を知っていればの話ですが。

みんなそろっていいほうに

再び「」ですが、これは因縁という条件次第でいかようにも変わるので、固定された実態などないという意味になりそうです。

そもそも諸行無常(しょぎょうむじょう)と言って、世の中のあらゆるものごとは絶えず移り変わります。

これをの教えに沿って考えてみると、例えば私という人間は、これまでにいろいろな方々との出会いや学び、選択、成功、失敗、不幸…と、さまざまな因縁がからみ合いながら生きてきた結果いまの自分になっているわけで、違う経験をしていれば別の人格だったはずです。同様にこれからの私は相変わらずかもしれないし、もっといい人になるかもしれませんし、大悪人になる可能性も否定できません。
どう転んでも、私という一個人は私だけの力で存在しているわけではなく、過去・現在・未来にわたって、ある瞬間の私だけが本物の私というわけでもなく、これからもさまざまな因縁によってどんどん変わっていくということです。

人間のみならず、小欄でも時々登場する『広辞苑』という辞書でも同じことです。私の住まいでは頭を乗せれば「枕」になり、一夜漬けの「重し」としても重宝しています。つまり辞書ですら使う人の思いつきや利用方法という因縁次第で、辞書という独立した存在価値を持たなくなるわけです(もちろん、いざというときほど辞書として頼っていますが)。

そういう私や辞書のように「色即是 即是色」という教えは、いま物質的現象として目に見えるどんなものも固定的な、独立した実態や価値を持っていない。それなのに私たちが勝手にそう見て、決めつけているだけなのだということです。
あらゆるものはさまざまな因縁で新たな価値や実態が生まれたり、滅したり、善くも悪くも変化していくのだから、「今の状態にこだわることなく」変化の現実を見極めながらどう生きたら安心なのかを考えなさいという教えです。

そしてこの教えは、どんな人でも仏になれるということにつながります。
冒頭に法華経の教えは「」を理解してからと言いましたが、法華経が説かれた経緯を言えばこうなります。
それまで仏弟子たちはみな、お釈迦さまの教えを信じて修行に励み成長の実感は持っていたものの、仏を目指す能力が不十分だと自覚していました。しかしお釈迦さまはみんなそろって仏になって欲しいと願っての教えを説いたところ、弟子たちは誰もが平等に仏になれる可能性を持っていることを理解し安心を得たんです。
そこでお釈迦さまは説法の場にいた弟子たちの修行の出来不出来にかかわらず、さらに徳の高い教えでも実践できると感じ、とっておきの法華経(あらゆる人々を仏にさせる因縁)を説いて、みんなそろってまっすぐ仏の悟りに向かわせたのです。

この話は、もし今の自分をダメな人間だと思っていたとしても、あきらめることなんかないということに通じます。
目の前の現実も私という人間の価値も固定されてはいません。「今の私」がどんな人間でも、どんな暮らしをしていても、可能性を信じ教えを胸にさまざまな努力をしていく中で、誰もが賢い人、かけがえのない人に、また苦しい現状を克服できる人に向かっていくから心配ないよと、お釈迦さまは「」を通して説いて下さっています。

どうせ変わるなら、みんなそろっていいほうに変わりたいものですね。


写真は妙法蓮華経「化城喩品第七」より

空について

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